江戸日記より
江戸日記 第三話 初恋     発表日 2002/11/16


 倉の中で見つけた曾祖父の江戸奉公日記は、退屈な夏休みを過ごすには格好の読み物だった。
もちろん、曾祖父の太助は作家ではなかったから、書かれた文章は幼稚だし、メモのようなものも多かったが、 それがかえって、僕の想像力を刺激し、たった数行の記述が一幕のドラマのように僕の心の中に膨らんだ。
 この話しは、太助が天満屋での奉公を始め数年しか経っていない、まだ小僧だった頃の日記で始まる。
 その日は、太助がこの店に奉公に上がった日から数えて、ちょうど三年目の同じ日だった。
「太助さん、私も今日から『兄貴分』だよ」
 太助より一年遅れて店に入り、今までは最年少だった小僧の伊太郎が嬉しそうに報告した。
 伊太郎は番頭の使いで奥に入り、そこで口入屋の丹波屋が、若い奉公人をつれて主人に挨拶をしているのを見た。
「男と女の二人だったよ」
 去年は、東北地方が冷夏に見舞われ、米の作柄が悪かった。米そのものの収穫も少なかったから、酒に仕込む酒米も充分には出回らなかったし、 そもそも、食べるための米需要ですら、まかなうことができなかったくらいだから、天満屋に入ってくる酒の量も限られていた。 もっとも、米価が上がり、それでなくても生活に余裕のなかった江戸庶民なのだから、買いたくても買えなかったに違いない。  天満屋の商いは細った。仕事が減っているので人手も充分である。天満屋では去年、新たに奉公人を雇い入れていない。
 年が明けた今年は、暖かい春だった。米の不作で泣いた農民も、春野菜が豊作になり、ホッと胸を撫で下ろしているという。 吹き荒れた不況の嵐も、ようやく持ち直し、店にも活気が戻っている。このままの天候が続けば、 今年こそは米も豊作になるだろう。秋口からは、商いも忙しくなることが予想された。
 天満屋では、小僧を一人と、主人の妻が二人目の子供を宿していたので、奥向きの下女を雇い入れた。
 下女として店に奉公した娘の名は「はる」、太助より四つ年下の十二才だという。
(妹の里と同じ歳だ)
 気のせいか、顔かたちも似ているように感じた太助だった。
 太助は、同郷の出身で田原町で大工の棟梁となっている彦蔵を頼り江戸に出た。そして、 丹波屋の紹介でこの店に奉公に上がった。はるも同じだった。はるの実家は、太助の生まれた村と隣りあわせになっている 村だったのだ。同じように貧しい村である。口減らし同様に送り出されてきたのだろう。隣り合ってはいても、 村に住んでいた頃の太助には、はると会った記憶はなかった。
 ぽっちゃりとして、きりょう良しのはるだったから、同僚の小僧や若い手代達の中には、
「俺は、おはるが好きだ」
 心ときめかすも多かったが、
(妹みたいな気がする)
 『女』としては、ほとんど意識していない太助であったことが、日記の端々にうかがえた。

  奉公人の休みは年二回の薮入りだ。
 手代になるまでは、無給の約束の小僧だったが、天満屋の主人は、
「たまの休みは、遊ぶがいい。小使いだっているだろう」
 小使いを渡して休ませた。
 家が近い奉公人は里帰りをしたが、太助のように、一晩ではとても往復できない故郷を持つ遠隔地からの奉公人は、 江戸での保証人の役目をした「仮親」のところに帰った。太助もはるも、田原町の彦蔵宅が仮親だ。
 はるが奉公を始めてから三年目の薮入りの日のことだった。  いつもは、職人の出入りの多い棟梁の家だったから、女のする仕事はいくらでもあって、働き者のはるは、 自分からすすんでおかみさんの手伝いをして過ごしていたのだが、この前の年に彦蔵の長男の彦一が嫁をもらい 女手は足りていた。
「いつもおまえさんには、よく手伝ってもらっているのだから、今日くらいは遊んでおいでな」
 はるは、彦蔵のおかみさんからも小使いをもらった。
「おい、太助。おはるを浅草にでもつれてってやんな」
 彦蔵は太助に充分な額の銭を与えて、追い出すように二人を送りだした。
「なあ、似合いの二人じゃあねえか」
 おかみさんも、微笑んでいる。
 薮入りの日に彦蔵の家いてもすることのない太助は、やはり帰る家のない彦蔵の弟子達と過ごしていた。 浅草にはそんな仲間と何度か遊びに行ってはいたが、はると一緒に行くのは初めてだった。
「太助さん、あの小屋の中には何があるのかしら」
 始めて訪れた浅草に、はるははしゃいでいる。筵かけの小屋を見つけるといちいち太助に聞く。
「おう、あれはろくろっ首って言ってな。首のなが〜ぃ女が、行燈の油を、ぺちゃ・ぺちゃ、……。舐めてな〜〜ぁ」
「いや〜ぁ。恐〜ぃ」
 すっかり兄貴風を吹かせて気張る太助だったが、実は太助も入ったことはなかったのだ。
 雷門の前では、
「おおき〜ぃ」
 手を前に組んで、大きな口を開け、見上げるはるである。その声が、あまりにも大きかったので、 道行く人達が皆振り返えり、真っ赤になってしまったはるだった。
「どうしょうもねえなぁ」
 苦笑しつつも楽しい太助だ。
 今日のはるは、いつもの下女のお仕着せではなくて、彦蔵の娘の着物を借りて着ている。どこから見ても、 年頃の町娘だった。
(おはるが、こんなにきれいな娘だとは思わなかった)
 驚いた太助だったし、一緒に歩いていると、妙にむずかゆくて、そして嬉しかった。  昼には並木の「薮」で蕎麦を食べた。このころ江戸では「天ぷら蕎麦」が流行っている。 貝柱をこまかく刻んで、ころもを付けて揚げた「かきあげ」である。
「こんなおいしいもの始めて食べたぁ」
 揚げたての熱い天ぷらを「ふうふう」と息を吹き掛けながら無心に食べているはるを、
(かわいい)
 太助は思った。
 そして、その次の薮入りも、太助とはるは休みの一日を一緒に過ごした。店に帰れば、 店と奥とははっきりと区分けされており、二人が言葉を交わすことはほとんど無い。薮入りの日、 二人が密かな秘密の時間を過ごしていることを知っている者は店にはいなかったし、 店ではそんな親しげな素振りをけして見せない二人でもあった。
 はるは働き者だった。しかも、影日向のない実直さと、素直な性格が、周りの人達をなごませる。 主人夫婦は、そんなおはるをかわいがった。
「あなた、おはるには、良い相手を見つけて下さいね。この店から嫁にだしましょう」
 奥さんは、主人に言い、主人も、
「しっかりした良い男を探がし、充分な嫁入り支度もしなくてはね」
 そう言い合っていた。
 当時の娘の適齢期は十六才くらいから十九才くらいまで、二十才を過ぎるともう遅いと思われていた。 一方男の方の結婚適齢期は、職業や身分によってかなり違っている。武家や商家の息子は早かった、 跡継ぎを作る必要があったからだ。ところが、店の奉公人や職人は違っていた。一人前になるまでは、 住込が普通だ。住込では結婚はできない。
 太助のような大きな店の奉公人は、十三才くらいで小僧に入り、二十一〜二で手代に昇格する。 見込みのない奉公人は、手代になれずにひまをだされる。主人が見込んだ、ほんの一握りの奉公人だけが、 三十才にもなったころようやく番頭になる。
 番頭になると、やっと一人前の扱いとなり、住込みから開放されて、長屋を借りたり、 実家のある者は家から通勤することが許された。
 番頭といっても勤め人である、それほどの給料をもらえるわけでもない。ようやく嫁をもらえるのは、 三十歳も半ばを越えてからが普通だった。
 ようやく手代に昇進したばかりの太助とはるが、結婚するなんて誰も考えもしない。太助にしても、 はると結婚しようなんて考えたこともなかったから、はるに縁談が持ち上がったと聴いても、 ちょっぴり寂しかっただけだった。
「うちの旦那さまが選んだ男なら、きっと良い男だろう。おはるも、きっと幸せになれるだろうなぁ」
 思った太助だった。
 はるが嫁に行く日がきた。主人も奥さんも、まるで自分達の娘を嫁にだすような騒ぎで、そわそわとしておちつかない、 そんな奥の気配が店にも伝わってくる。なんとなく奉公人達の気持ちも、高ぶっていた。はるは、 店の奥で花嫁衣装を付け、店先で篭に乗り、婚家先の小間物屋音吉宅へ向かうことになっている。
 今朝、まだ店が開く前に、主人が奉公人を集め、はるの嫁入りの挨拶をした。
(おはる、よかったなぁ)
 素直に思った太助だった。屈託した気持ちは、これっぽっちもなかった。
 八ツ半になって、店の外に迎えの篭が止まった。
 あとはもう、花嫁衣装に身を飾ったはるが、店で見送る太助たち奉公人の前を通り抜けて、篭に乗るばかりであった。
 どうしても、主人に目を通してもらわなければならない書類があって、太助は奥の主人のところに行った。 主人の判断を仰ぎ、店に戻ろうと奥の廊下を店の方向に曲がったとき、白むくの花嫁衣装に着飾った、はるが現れた。
「太助さん。太助さんにだけは、もう一度、お嫁に行く前にお話しがしたかったの」
 控えの間で篭を待っていたはるは、太助が主人の居間に入るのを見て、廊下にだてきたのだった。
「太助さんには、いつも親切にしてもらって、あたし、とっても嬉しかった」
 声が震えている。
「あたし、太助さんを兄さんのように思ってた。でも、お嫁に行くって決まったとき、あたし……、あたし、 太助さんが好きだった、そうわかったの」
 小さなすすり泣きが聞こえる。
「あたし、わかってる。あたしがいくら好きでも、太助さんのお嫁さんにはなれないってこと。 太助さんは、いまにきっと立派なお店を持てる人だって、旦那さまも言っているし、あたしもそう信じています。 そのためには、お嫁さんなんて持てない、そんなことあたしわかってるから、あたし、わかってるから……」
 たまらなくなって、太助ははるを引き寄せた抱きしめた。
 白むくの花嫁衣装で、二回りも大きくなったおはるの身体は、小刻みに震えている。
(もう、奉公なんてどうでもいい。このままおはるを連れて逃げてしまいたい)
 太助が思ったとき、はるは涙ながら、しぼりだすように言った。
「あたし、いいお嫁さんになります。きっと幸せになります。太助さんのことは、思い出として、 あたしの心の中に大事にしまって……。あたし、あたし、今日、お嫁に行きます……」
 あとは声にならなかった。
 大粒の涙が、目頭から鼻にかかって流れる。
 手でその涙を拭った太助は、そっと、はるの真っ赤に紅をひいたくちびるに自分のくちびるを重ねた。
 始めて触れた、はるのくちびるは、温かくて、柔らかくて、紅と涙の味がした。

                                        完



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