Bar・ロア(大人の夜話)
第一話 手錠     発表日 2002/11/24


 ベトナム戦争が始まったころだった。このガード下に、二・三坪の小さなバーが、たくさんできた。
 接客のための、若い女性を雇っている店も一部にはあったが、ほとんどの店は、マスターかママが一人きりで、数人の客を相手に商売をしていたものだった。
 いつ頃からだったのだろうか、つぶれた店をその隣が買い取って、だんだんに店が広くなりだした。
 女の子を数人置いているのが当たり前になり、客筋も、一日の仕事を終えて駅へ向かう途中に寄る個人の客から、グループでの社用客へと中心が移っていった。
「からおけ」の装置を置き、店の名前も「バー」から「スナック」や「パブ」と変わっていった。
 今では、「バー」の看板を出しているのは、ここだけになってしまっている。


「バー・ロア」の広さは、四坪を少し欠ける。
 前のオーナーは、女性を二人使い、「からおけ」も使っていたというが、私が買い取ってからは、昔に戻した。
 この店は、学生だった私が、バイトで稼いだわずかばかりの金を握り締めて、よく通った店だった。
 当時のマスターは、私が駐在員としてニューヨークに勤務していた時に亡くなった。
 バイクが趣味だったマスターは、店の前に赤い「モトグッチ」を置いていた。
「金がないくても、ひまなら飲みに来いよ。バイクを洗ってくれれば、二・三杯なら飲ませるぜ」
 マスターは、われわれ貧乏学生の「兄貴分」だった。
 ある休みの日、愛車に乗って軽井沢に向かう途中、突然道に飛び出してきた子供を避けようとして転倒し、帰らぬ人となった。
 その後、数回オーナーが変わって、ひょんなことから、私自身が、この懐かしい店のオーナーになった。
 買い取ってすぐに、けばけばしかった内装を昔に戻し、店の名前も同じ「ロア」とつけた。
 もちろん、今でも「モトグッチ」は、店の前に駐車している。
 女性は雇わなかった。
(できるだけ昔のように、マスターの私一人でやってゆこう)
 もっとも、家もわずかばかりの資産も、すべて別れた妻と子に与えてしまい、これ以上金をかけることもできなかったのだが。


 その初老の客が入って来るのは、いつも閉店まぎわの遅い時間だった。
 いかにも、
「疲れた」
 そんな雰囲気で入って来ると、決まってオンザロックの『フォア・ローゼ』を注文し、しばらくは話もせず、じっと目をつぶっているのが印象的だった。
 そんな態度は、無口な性格からではなく、ただ、疲れきっている、そう理解したのは四・五回も通ってくるようになってからだった。
 ゆっくりと1杯のバーボンを飲みほしてからの彼は、陰気ではあったが、私や常連の客達と、世間話をしたり、じっと、BGMのジャズに耳を傾ける、ごく普通の客だった。
「めんどうのない、いい客だ」
 そう、私は思っていた。


 ほぼ1カ月ほども姿を見せなかった彼が、まだ店を開けたばかりの、早い時間に入ってきた時、私には、それが彼だとはわからなかった。
 それくらい、雰囲気が違っていたのだった。
「今日は、お早いですね。それに、お客さんのそんなに明るい顔を初めて見ましたよ」
 いつもの、オンザロックのバーボンを彼の前に置きながら言った私の言葉は、けして誇張でもない、素直な感想だった。
「うん、今ね、辞表を出してきたところなんだ」
「……」
 明るい顔と辞表、およそにつかわしくない言葉に、私は返答ができなかった。
「マスター、おれの仕事が何だったのかわかるかい。ふ・ふ。刑事だったんだよ。もっとも、出世なんぞとは、およそ縁のない、万年平刑事だったんだがね」
「そうだったんですか」
 日曜日でも店を開けている「ロア」だった。彼は、数少ない日曜の客だったから、
(普通のサラリーマンではないだろう)
 思ってはいたが、刑事だとは思わなかった。
「事件が解決して、ほしが上がった時。長い尋問での根比べ、ようやく自白させた時。そんな日によくここへきていたんだよ」
 にこっと笑った彼の顔は、これまでよりずっと若く見えた。
「そう、仕事を仕上げてホットして、それでも疲れが残っている時、この店で飲むと不思議に元気になる。おもしろい店だよ、ここは」
 誉められていることに間違いはないのだけれど、どうもこそばゆい感じで、私は受け答に困ってしまった。
 どんな理由で辞表をだしたのか、聴きたい気持ちはあった。しかし、必要以上に質問をしないのが、マスターたしなみだ。
「二杯目は、店からのおごりです。長い間ご苦労さまでした」
 私は、自分のグラスをテーブルにだし、空になっている彼のグラスと、私のグラスにバーボンを満たした。
「クッ、クーッ」
 彼は、いかにもおかしそうに、それでも声を殺して笑ってから、私のさしだした二杯目のグラスに手をだした。
「ありがたく頂くよ。たしかに長い間だった。長い間、刑事という名の機械だった」
 彼は、一気に飲みほすと、
「マスター今日はこれで帰るよ。今日こそは早く帰って、家族みんなで夕飯を食べるつもりなんでね」
 元気に立ち上がると、彼は帰っていった。


 彼が、その次に店の客になったのは、それから十日ほどたって、新しいMJQのCDが届き、パッケジを開けている時だった。
 いつものバーボンのグラスと、ミネラルウオーターの入ったタンブラーを、彼の前に置いて、話しかけた。
「警察をおやめになったあと、どうしているんですか」
 他の客はみな帰ってしまい、店の客は、カウンターの彼だけになっている。
「おきまりのコースさ、その先の工場で守衛に雇われているよ。刑事くずれじゃ、まさか営業マンてがらでもないしね」
 がっちりした彼の体格を見たなら、たいていの泥棒は遠慮するなと、私はおかしくなった。
「こんどは、規則正しい勤務なんですね」
「うん。夜勤もあって、けして楽な仕事じゃないけど、予定は始めからわかっているから安心だと、女房が一番よろこんでいるよ」
「刑事のご主人を持つ奥様は、つらかったでしょうね」
 刑事の仕事なんて、テレビのドラマの世界でしか知らない私だったが、奥さんの気苦労は想像できた。
「一度家をでたら、いる帰るかけんとうもつかない、やくざな商売だったからな」
 うなずきながらグラスを置く、
「奥様のために、おやめになったんですか」
 あまり立ち入ったことを聴くのは良くないと、充分理解しているつもりだったが、つい口をすべらせてしまった。
「いや。女房はおれの仕事を理解していてくれたから、悪いとは思っても気にはならなかったよ。でもね、最後のやまが、おれの気持ちを変えてしまったってことかな」
「危険な事件だったんですか」
「いやぁ。つまらに事件さ。けちな詐欺事件でね。逃げている容疑者を探して逮捕するそれだけのやまさ。しかし、あの張り込みはこたえたなぁ。」
 グラスを両手で持って、回している、中の氷がカラカラ鳴った。
「寒かったですからね、あの頃は」
「寒かった。そして、張り込んでいる家、逃げている男の家の家族の様子、これがつらかった」
「父親が犯罪者になったんじゃ、重苦しい雰囲気だったんでしょうね」
「それだったら、なれているよ。平気なんだがちがうんだ。明るいんだよ。それを見ていると本当にせつなかった」
 彼は、思い出すように淡々と話す。
「その家は貧しくてねぇ。それでも一家がなんとか力を会わせて明るく生きてきた、そんな家族だったんだよ。それが、娘のために、どうしても金が必要になった、それで無理に金を作ろうとしたんだなぁ。けっきょく、プロの詐欺師の手助けをさせられてしまったんだ」
「貧しさからの、犯罪ですね」
「父親が罪をおかした、そのことを知った時には、もちろん家族はびっくりしただろうさ、だけど、それが娘のためだったとわかって、かみさんも、その娘も、うらむどころか、むしろ感謝している、そんな感じなんだなぁ」
「信頼しあっている家族だったんですね」
「悪い事をしたのだから、父は刑務所に行かなければならない、でも私のためにしたことなんだから、毎日でも刑務所に面会に行くって、その娘が言うんだよ。心の底から愛してるんだな、父親のこと」
 私は、空になった彼のグラスに『フォア・ローゼ』をついだ。
「それで思ったんだ。おれの女房や子供達、おれのことそんなに信頼しているのかってね。答えはノウだと思ったんだ」
 ミルトジャクソンのビブラフォンソロが、静かに店に流れている。
「おれは、自分で言うのもなんだけど、優秀な刑事だったんだ。だから、犯人には手錠を掛けられる。でもね、刑事だってだけでは、人の心はつかめない。こんどは、家族の心に手錠を掛けたい、そう思ったんだ」


 彼の前に置かれたグラスの中で、氷が「コトッ」音をたてた。


                        完



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