
| 第二話 二つのグラス 発表日 2002/12/01 |
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『Bar・ロア』は小さな店だ。 店は四坪そこそこ、「カラオケ」も置いていなければ、女性もいない。 オーナーの私がマスターになって、一人で細々と営業している。 「スナック」ばやりの昨今では、『バー』の看板で営業しているのは、ガード下ではもうここだけになってしまった。 華やかな「歌声」もなければ、若い女の子の「色気」もない、そんな店だったが、ここには、琥珀色の上質の酒に良く合った微妙な照明と、選びぬかれた最高のジャズがあった。 ボトルキープの嫌いな私だったから、同じラベルの黒いボトルが、カウンターの後ろに並んだりしてはいない。 飾り棚の中央には、極上のクリスタルグラスが並んでいた。 月に1回、月末に近い頃、必ず一人でくる三十代後半の客がいた。 座るのは奥の隅から2番目、そこが彼の指定席だった。 酒は『ワイルドターキー』のオンザロック。 なぜか、いつも2杯注文する。 「お連れ様がいらっしゃるのですか?」 最初に彼が来たときに聞いた。 「いや、そうじゃぁないんだけど……。二つ、グラスを並べるのが好きでね。混んできたら、いつでもどけるよ」 自分の席にグラスを一つ、壁際の隅の席にもう一つのグラスを置いた。 彼は追加を注文をする時にしか、口をきかなかった。 「ロア」は静かな店だったから、一人で黙って酒を飲む客はめずらしくはない。ただ、彼は、そんなこの店の雰囲気を楽しむ常連客のそれとは、少し違っていた。 私には彼が、何か特別な男に思えた。 彼はいつも、デザインの良いオリジナルブランドの背広を着ていた。 派手ではないが、彼の趣味の良さが現れている。 髪型にも嫌みがなく、ごく自然なのだが、こまめに手入れをしているのがわかる。 「営業マン」、それも、優れた能力と彼自身の人格で、お客の心をつかんで離さない、そんな一流の営業マン。これまで沢山の人を見てきた私にそう思えるのだが、そうでないようにも思える。 (不思議な客だなぁ) 思うこともしばしばだった。 この店は、常連の客が多い。店の雰囲気が好きで、一人静かに酒を飲む客と、私と四方山話しをするのを楽しみに、通ってくる客が多かった。 そんな店だったから、格別いそがしくはなかったが、かといって暇なことも滅多になくて、彼と話しをするチャンスは、なかなかめぐってこなかった。 いつもは、8時近くになって、ようやくいっぱいになる店だったのに、その日に限って夕方から客が立て込み、9時過ぎにはうそのように帰ってしまった。 めずらしく静かな夜だった。 がらんとした店に、MJQの「ジャンゴ」が、静かに流れている。 店には、彼だけが残った。 「お静かに飲まれるんですね」 空になった二杯目の『ワイルドターキー』のグラスを受取りながら話しかけた。 「ええ、今日は特別な日ですから」 微笑みながら答えた男の声は、やさしさと張りのある、良く通る声だった。 「お隣の席の方の、特別な日ですね」 いつもの通り、隣の席には、グラスが一つ置かれている。 最初に店に彼がきて以来、どんなに店が混んでも、カウンターの隅のグラスを一個置いた席には、ほかの客を座らせなかった。 座らせてはいけない、私はそう感じていた。 彼が、そこに、見えない「誰か」を座らせて、無言の会話をしているのがわかっていたからだ。 「ええ、彼のための特別な日です。そして、私自身の……、特別な日です」 少し意外な気がした。てっきり「彼女」と思っていたのだが、「彼」と言ったからだ。しかも、きっぱりと言い切る彼に、私は何とも受け答えができなくて、微笑みながら彼を見つめているしかなかった。 今日の彼は、いつもとは違っていた。私が話を聴きたがっていると感じたのだろう、彼は、静かにではあったが、熱く話し始めた。 「数年前のことなんだ。私が商品企画を担当し、ある商品の開発をしていたんだよ。その商品は、過酷なくらいに大きな売上げ目標が設定されていたし、与えられたコンセプトと、我が社の技術力との間には大きなギャップがあった。克服するのは大変な仕事だと、始めからわかっていた。デザインにも、最高のクオリティを要求されていたし、若かった私には荷が重い、そんなきつい仕事だったんだ。それでも、なんとかしてやりとげようと、私は必死だった。そんな、私の気持ちがプロジェクトの仲間に伝わって、技術者もデザイナーも、必死になってがんばってくれてはいたんだけど、思うようには進まなかった」 ミルト・ジャクソンの弾く、バイブの小刻みな鼓動が、彼の語り口と微妙に反応して、空気が揺れている。 「担当役員の前で、デザインと商品仕様を説明する会議の日を、間近に控えた最後の1週間なんて、プロジェクトのメンバーは徹夜で仕事をしたんだよ。特にデザイナはねぇ、打ち込んでいた。あまりにも激しくね」 それは、いつもの彼のくせだった。グラスゆすり、氷をくるくると回す。 「工業製品のデザインだから、絵だけ奇麗に書けていても、それが良い製品になるとは限らないんだ。しっかりとした技術的な裏付けがなければ、良い製品にはならないさ。技術者との打合が毎日続いてね。悩めば悩むほどわからなくなって、良いアイディアが浮かんでこないんだ」 「そうでしょうね、私もメーカーにいたことがありますからねぇ、良くわかりますよ」 私は、若い頃ある機械メーカーのエンジニアだった。駐在員として、海外勤務の経験もしている、「商品創り」の苦しさは理解できた。 「会議に提出したデザインは、私が見ても良い出来じゃあなかったよ。会議は惨憺たる結果だった。私を含め、チーム全員がさんざんに叱られたあげく、やり直しを命じられた……。自分達が見ても、満足のできない状態でのプレゼンだったんだから、しょうがないよ。予想していたさ。それはそれでいいと思っていたんだ。会議が終わって、みんなで焼け酒でも飲んで、ふっ飛ばしてね、延ばしてもらった時間を有効に使って、今度こそ満足のゆく仕事に仕上げる。その、新たな出発点にしようと私は考えていたんだ」 彼は、大きく、ため息をついた。 「ところがね、ある幹部の一言が、我々の気持ちを萎縮させてしまったんだ……。結果を評価されたんじゃあなくってね、担当者一人一人の『人間』を批判されたよ。『やる気が無い、能力が無い』、そんな、頭ごなしな言われ方をしたんだ」 「一生懸命がんばっていたことが、わかってもらえなかったんですね」 「うん。特に、デザイナーへの批判はひどかった。『おまえには、才能が無い、デザイナーなんてやめてしまえ』そこまで言われたよ。まあ、本人は気軽な気持ちで、いつもの通り部下を叱ったつもりだったんだろうがね……。ちょっときつかったなぁ。見てる間に、そのデザイナーの顔色が、青から紫色に変わったのを覚えているよ」 氷が溶けて、薄くなってしまったバーボンを一気に飲み込んで、男はまたため息をついた。 BGMは、「ニューヨークの秋」に変わった。バイブのゆっくりとしたメロディーラインと、ケニー・クラークのドラム・ブラシが、静かなバラードを織りあげ、初秋の香りがロアに漂っている。 「お隣のグラスは、そのデザイナーの方のためだったんですね」 グラスの表面に付いた、水滴がきらきらと輝いている。 「そう。彼の死体は翌日の昼頃に発見されたんだ。白樺湖の湖畔に止めた、白いセリカの中だったよ。丁寧に、悲しいほど丁寧に、ガムテープで窓の隙間を塞いでいたよ。そして、廃ガスを車内に引き込んだ。たった一人の、寂しい死にざまだった」 BGMのCDは、もうとうに終わっていたが、ディスクを変える気にならなかった。薄暗い店内には、音のない音楽が、静かに流れている。 「今日が、ご命日ですか」 「うん。10月の27日が彼の命日なんだ……。私はね、その幹部を恨んではいないよ。彼の自殺の原因は、仕事ばかりではなかったようだしね。女性問題でもずいぶん悩んでいたらしいんだ、まあ、そのことが引き金になった、そんな程度の事だったんだろうね」 新しく注いだ『ワイルドターキー』を、旨そうに飲みながら、彼は言った。 「しかし、いい経験だったよ。自分で言うのも恥ずかしいが、私は一流といわれている大学を卒業し、一流の会社に就職した。仕事もおもしろかったし、実績もぐんぐん上がっていたんだ。同期の中では出世頭といわれていたし、天狗になっていたんだなぁ。それまでの私は、すぐに議論をふっかけて人をへこまし、人を人とも思わない口をきいたり、ずいぶんときつい言葉で、他人を批判したりもしていた。自尊心の強い、嫌味な男だったんだよ。でもね、その事件で、私の性格が変わったよ。自分の発言に慎重になったし、そしてそれが周りの人にどんな風に受け取られるか。人の気持ちを考える、そんな自分に変わっていった。成長したってことなんだろうね」 隣の店の「からおけ」の音が、まるで遠くの、別の世界からの音のように、小さく聞こえている。 「今日はね、私の第二の誕生日でもあるんだなぁ。人生の誕生日……。この店には、彼と二人できたことがあるんだよ。それでね、毎月27日には、ここで、彼の好きだったバーボンを、彼と二人で飲むんだ。未熟だった頃の自分を想い出しながらね」 その日も、彼は4杯の『ワイルドターキー』を飲み干し、静かに帰って行った。 私は、飾り棚のグラス置き場に、二つ分のスペースを確保した。そこには、彼と影の客との専用の、特別に素敵なグラスを二つ選んで、置くことにしよう。 完 |