
| 第四話 手を握って 発表日 2003/01/05 |
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こんなことは始めてだった。 彼女は、いつも月末の金曜日に初老の紳士ときて、2・3時間過ごして帰る、そんな良く見掛けるカップルの客だった。 (不倫だな) そう感じてはいたが、それ以上の関心を引くようなタイプでは無い、ごく目立たない普通の女性だった。 「Bar・ロア」は小さな店だったし、カウンター中心の作りだったから、一人客が多かった。 常連は一人で来ることがほとんどで、たまたま居合わせた常連同士が話をしたり、マスターの私と世間話をするのがこの店のスタイルになっている。 男女の二人連れは、そんな常連の話の輪に加わることは少なかったし、私と話をする客もほとんどいない。特に不倫のカップルだったら、口出しは無用だった。 彼女もそんな客の一人だったから、話らしい話をしたことは無かった。 8月になっても梅雨が明けきれず、小雨の降る日が続く寒い夏だった。 早い時間には勤め帰りの客でかなり混んでいたのだが、午後11時を過ぎ、店には数人の常連客だけになっていた。 ギィ〜 このところ続いた雨の湿気で、蝶番から音のするようになっているドアを、遠慮がちに開けて、彼女が入って来た。彼女の姿を見て、久しぶりだと感じた。以前は、ほぼ毎週きていたのだが、このところ1ヶ月ほど見ていなかったからだ。 「今晩は。よろしいですか」 彼女は一人だった。 (後から連れがくるのかな) そう思ったのだが、彼女は、いつも二人が座る、奥のボックス席には行かず、カウンターの隅の席に座った。 「今夜はお一人なんですか?」 「ええ……、まあ……」 もともと、静かな雰囲気の彼女だったが、妙に暗い。 「いつものビールでよろしいですね」 二人がオーダーする酒は、男はバーボンソーダ、彼女は国産のビールと決まっていた。 「いいえ、今日はバーボンソーダが飲みたいわ」 首を左右に数度、強く振ると、何かを吹っ切ったのだろうか、入ってきた時の暗い雰囲気がうそのように、明るい声になって、彼女は酒を注文をした。 「じめじめする日が続きますねぇ」 「ええ、洗濯物が干せなくて困りますわ」 口に運んだグラスを傾けて、半分ほどを一気に飲み込んで、グラスを置いた。 その時、 (おや!) と、思った。 (彼女って、けっこう美人だったんだ) 女性としては、背の高い彼女だった。 しかも、ちょうど良いほどに豊満な体が、地味ではあるが、かなり高級品と思われるドレスに包まれている。 (30代前半かな?) いつもは、つつましく、微笑みながら、連れの男と話をしていた彼女だったが、今日はまるで人が違っているようだった。 「あのぉ、火ぃ貸してもらえます?」 常連の「山ちゃん」が最初に声をかけた。 一番奥に座った彼女の隣に、椅子一つを空けて、カウンターの席は常連で埋まっていた。 それまでは、常連同士で話をしながら、ちらちらと彼女を見ていた彼らだったが、隣に座っていた山ちゃんがおそるおそる、そして緊張しながら話かけた。 「ジッポーのオイルが切れちゃったみたいなんで」 「あ、どうぞ」 セカンドバックから銀のライターを取り出すと、山ちゃんのくわえる煙草の先に火を付けた。 山ちゃんの口元から白い煙がでるのを微笑みながら確認した彼女は、バックからディオールのシガレットケースを出し、バージニアスリムのメンソールを1本つまみ出した。 (おや、煙草を吸う彼女を始めて見たな) 「奇麗なライターですね」 細身のダンヒルが、彼女の細い指に良く似合っている。 「ええ、ちょっと重いのが玉に傷なんですけどね」 これをきっかけに常連達は次々に彼女に話し掛け、彼女もこれに合わせている。 彼女の華麗な変身は、居合わせた常連を充分に楽しませ、かつ酔わせた。 「あ、いけねぇ、終電が出ちゃうよ」 山ちゃんの言葉をきっかけに、常連達は次々に帰って行き、店には彼女だけが残った。 「近くにお住まいですか」 終電の出る1時10分を過ぎても店に残っている客は、近くに住んでいるか、付近のビジネスホテルに宿泊している出張中のサラリーマンである。 「いいえ、横浜なんです」 横浜までの電車はもうとうに終わっている。 「今日はお泊りなんですね」 「えぇ」 こころなしか、うつむき加減に、それでもはっきりと彼女は言った。 二人っきりで店にいると、なんとなく話しずらく、私は黙っていたし、彼女も黙ってバーボンソーダの入ったグラスを見つめている。店には、MJQのブルース・オン・バッハが、静かに流れている。 「私が、とっても苦しかったとき、彼に会ったの」 つぶやくように彼女が言った。 グラスの中の氷が廻っている。良く冷やして堅くした氷を、アイスピックを使って丁寧に角を取り、丸く加工してからまた製氷室で冷やし固めた氷は、溶けづらくしかも、透明度が高く美しい。 「結婚して、子供もできたけど、夫の両親や親戚と折り合いが悪くて、いじめられて。夫は人がよいだけの意気地なし。私をかばってなんかくれなかった」 独り言のように言ってから、彼女はしばらく黙っていた。 ビブラフォーンの音色が静かに流れている。 「離婚して、会社勤めを始めたけど、昼間の仕事だと、帰ってからの一人の夜が寂しくて辛かった。眠るためにお酒を飲んで。それでね、考えたの、いっそ、夜の仕事の方がいいって。飲んで、はしゃいで、酔いつぶれて眠って。毎日が泥酔だった」 「そんな頃に彼に会ったの。彼ね。大阪の人でね、単身赴任で東京にきていたの。彼も寂しかったんでしょうね。私の勤めていたお店に毎日のように来るようになって知り合ったの」 お酒にはかなり強い女性だとは思っていたが、バーボンソーダもすでに5・6杯になる。彼女の話す言葉の語尾が不明瞭になり始めている。 「始めの頃はねぇ、私の方が彼をなぐさめていたんだけど、いつもまにか、私がなぐさめられるようになって」 彼女の目に、涙の粒が一つ見えた。 「私、立ち直ったわ。自分が酔うために飲んでいたようなもんだったホステスの仕事を、本気でする気にさせてくれたのが彼だったの。がんばって働いて、小さいけどこの銀座にお店も持てた」 (おや、ママさんなのか。でも、かきいれの金曜日にはいつも来ていたな) 「口の悪い常連のお客さま、私のことね、金曜日のお嬢様って呼んでいるのよ。なぜだかわかる」 「いえ、わかりませんね」 「クラブの商売で一番忙しいのが金曜日よね。でも、私のお休みが金曜日だったから。金曜日だけは、普通のお嬢様になって、おとなしく家で過ごしているって言い出したお客様がいて、それが通り名になっちゃった」 クスっと笑ってから、小さなハンカチで目元を軽くぬぐった。 「金曜日はねぇ。彼が大阪に帰る日なの。夕方会って、食事をして、新幹線の最終に間に合う時間までこので一緒に過ごすしていたのよ。駅のホームでは、会社の人に会うかもしれないから、とても見送れないでしょう。だから、このお店の前で別れていたの」 彼女が、何を話したくて、そして、今日、どうして一人できたのか、私はそれが知りたなってきた。しかし、 (どうして今日はお一人なんですか) とは聴けなかった。しかし、彼女の方から、その私の心の疑問への答えが返って来た。 「彼ねぇ。死んじゃった」 少し投げやりに言う彼女の言葉は、まったく予想もしていなかった内容だったので、私は言葉を失ってしまった。 「単身赴任だし、本社は大阪だから、いつかは帰ってゆく人。わかっていたわ」 良くある話と、言ってしまえばそれまでだが、私も、何度か海外勤務を経験している。それぞれの国で、それぞれの出会いや別れもあった。 「いつも通り、このお店の前で別れて、それが、最後になるなんて、想像もしていなかったわ」 「ご病気だったんですか」 なんとも返す言葉が無く、つい、言ってしまってから、しまったと思ったのだが、もう遅かった。 「突然だったの。新幹線で大阪に着いて、私鉄に乗り換える途中の路上で、飲酒運転の車にはねられたんですって」 「交通事故ですか」 「事故だったし、即死だったようだから、私に連絡なんてなかったわ。会社の同僚の人たちも、冗談半分で私達を不倫のカップルだなんて言ってた人でも、現実にあんなになっちゃったんですもの、わざわざ連絡をしてくれる人もいないわよね。彼が亡くなってから、1ヶ月もたってから、偶然、噂話で彼が死んだって聴いたのよ。ほんの、さっきね」 今日は月曜日、まだお店が終わってもいない時間に、この店に入ってきたのは、彼の死を知らされ、店に居たたまれなくなって飛び出してきたのだろう。 「マスター、お代わり」 首を、ちょっと振って、気分を変えようとしたのだろう、もうかなり前から空になっていたグラスを、私に差し出た。 「それでは、私も、ご冥福をお祈りして同じものを……」 二つのグラスにバーボンソーダを造り、一つを彼女に渡し、私がもう一つを持ち、軽く頭を下げてから飲み干した。彼女は、私に合わせてグラスを口に持ってはいったが、軽く唇を付けただけで、じっとグラスを見つめている。私は、いたたまれなくなり、そっと、彼女のそばから離れた。 MJQのピラミッドが、ドラムの連打でちょうと終わるときだった。 「お勘定をしてください」 意外にしっかりした声で彼女は支払いを告げた。気持ちの整理がついたのだろうと、ちょっとほっとした気分に、私はなった。 コイン数枚のおつりを渡すと彼女は、 「あのぉ、あつかましいとは思うんですけど、お願いしたいことがあるんですが……」 「え、なんでしょう」 彼女が、私に頼みごとなどとは、まったく予想もしていなかったので驚いた。 「私たち、いつも、このお店の前で別れるとき、手を握り合ってから別れていたんです。最後の、本当の別れの時も、手を握り合って、そして、明るく別れようって、彼とも話していたんです。でも、その最後の儀式ができなかった。代わりといったら申し訳ないけど、私にとってのけじめにしたいんです。お願いできますか」 断る理由もなし、彼女の言うまま店の前にでて、彼の代役をした私だったが、その、ほんの数分の間に、彼女の心に去来する思いが、どれほどのものだったのかは、私にも想像ができる気がした。 彼女は、その儀式をすることによりけじめをつけるとは言っていたが、本当に彼のことを思い切る、忘れることができるのだろうかとも思った。 死んでしまったのだから、生き別れよりはまだ辛くはないだろうとも思う。生きていて、どこかの空の下で、相手も自分のことを忘れきれてはいないと思う方が辛い。 死んでいるにしろ、生きているにろ、別れは辛いものである。私もそんな別れをどれほどしてきただろうか。そんなときには、喧嘩別れが、相手を憎んで別れる方が、はるかに楽だと、眠れない夜を数え切れないほど過ごした。 辛い別れが嫌ならば、人と接触しなければ良い。そんな気持ちになってことですらあったのだ。しかし、人とであう喜びの誘惑には勝てなかった。そんな気持ちが、このバー・ロアを引き継いで経営するきっかけになっている。 ここ、バー・ロアには、数え切れないほどの、出会いと別れが染み込んでいる。 完 |