篤之進事件帳より
篤之進事件帳 第一話 文化元年のシステム手帳     発表日 2003/01/12
 篤之進が懐中にその冊子を入れるようになってから、かなりの月日が経っている。
 江戸幕府の政治も、この文化元年にもなるとすっかり安定し、『武士』とは名ばかり、武道より学問が重要視され、すっかり官僚化している。
 いまどき剣術は流行らない。そんなことは、良くわかっている篤之進ではあったが、そこはそこ父親ゆずりの剣術好きである。少年の頃より学問より木刀を振り回すのが大好きで、神田明神下の念流道場に通いつめていた。
 学問の方にはなかなか力が入らない、系統だった学問をおさめた記憶は本人にもない。
 そんな篤之進が、突然の父のやまいにより家督を継いでからはや半年が過ぎようとしている。父元之介は、有能な目付として働いていた。目付といえば、
中堅の旗本の役職としては羨望の的であった。今でいうエリートである。家督を継いだからといって、安易に継げるような役目ではない。今の篤之進の身分
は、『目付見習い』である。もっとも、欠員になった役目はそのままになっているのだから、いずれは正式な目付に推挙されることには、違いないであろう。
 ところが、篤之進にとってお城での仕事はまことに持って
「勝手がわからぬことばかり」
いちいちが、新しい事の連続であった。
 そこで、篤之進はいつも紙と矢立てを持ち歩き、新しく得た知識をがむしゃらに書き留めている。篤之進にとっては、仕事も剣術の修行もほとんど同じレベルで取り組んでいるようだ。
 六尺をはるかに越えようとの体格を持って生まれた篤之進である。それでなくても目立つのに、懐から半ばはみ出した分厚い紙の束は、奇異だった。
 篤之進は、その紙束に日毎の覚えや、城中で知った各種の知識を書とめていた。ほごになった紙を集め、畳針で穴を開け、こよりで綴じる、けして糊などで固めてはしない。固めては、ほぐすことができない、篤之進はそう思っていた。
 帰宅後、閉じたこよりをほぐし整理し、覚えの部分と、知識の部分を区分けし綴じ直すのが日課になっていた。
「篤之進め、なにかと言うと懐中より紙など取り出し、書き付けておる。こまったものだ」
 叔父御のため息が、聞こえてくるようだ。
 そんな篤之進だったが、まわりの評判がこのところちょっと変わってきた。
毎日毎日持ち込まれる評定の仕事は、膨大な数にのぼる。長年の経験者である、先輩でも処理に困る難問が多々ある。ところが篤之進、何やらごそごそ懐中をまさぐり、例の冊子を取り出す。
「左衛門どの、類似の事例が一六年前にもございました」
 元来無口なはずの篤之進が、時おり口を出す。それがいちいち的確なものだから、上司も納得せざろうをえない。彼の評価は上がるばかりだった。
 そんな話を、おのおの家に帰ってから妻女にでも話すのだろう、このところ篤之進の登城する道すがら、すれ違う旗本の姫と思われる娘達の、篤之進を見る目が変わってきている。
 以前の篤之進は、洗い晒した木綿の着物に、汗の臭いを染み込ませて歩いていた。すれ違う娘達は、まるで恐ろしい物を見るかのように顔をそ向けたものだった。それが最近は、敬意のこもった目が篤之進を包むことも珍しく無くなった。  おそらく、家柄、器量共申し分の無い姫君との縁談が、近々持ち込まれるであろう。これも、これも冊子の効用と、一人だけで、勝手に納得している篤之進であった。いたって単純な、細胞でできている脳ミソに違いない。


 篤之進にとって、見合いは初めての経験だった。少年時代より剣の修行以外には、ほとんど興味を示さない生活を送って来た篤之進である。年頃の女性とまともに話をしたようなことなど、ほとんど記憶にも無かった。  父のやまいのためとはいえ、小禄なれど家督を継ぎ、立派な直参旗本の端くれに加わったからには
「嫁を迎えて、名実共に家長と成らねばならぬ」
 元来が世話好きで、少しおっちょこちょいの気味の有る、叔父御の言いようはもっともだろう。
 かたち通りの挨拶が終わったのち、叔父御は室外に去り、部屋には篤之進と相手の娘の二人だけになった。娘の名は「浄」文字どうりの『おじょう様』だった。
「なにを話して良いのかまったくわからぬ」
 篤之進は、暑くも無いのに、盛んに吹き出る額の汗を懐紙で拭おうと、懐に手をさし入れた。すると、その弾みで、懐の奥深くしまい込んでいた例の冊子がぽろりと転がり落ちた。
「まあ」
「これは、その、あの、……。そそうをいたした」
 篤之進すっかり、狼狽してしまっている。
 浄殿は美しい娘だ。当時の女性としては少々背が高すぎるかもしれないが、大男の篤之進とは釣合が良い。どちらかと言うと痩せ型で、立った時の姿は、すっきりとして美しい。顔は小さめのだったが、目が大きく、眉が濃く長い。
 娘らしく、伏せ目がちにしている時には、しとやかにも見えるが、顔を上げると、大きな目に生き生きとした表情が有り、知的な中に愛らしさがあふれ、かわいらしい。
 ひと呼吸を置き、気を取り戻した篤之進は、落ちた冊子を拾おうと手を延ばした。すると、浄殿も自分の振り袖の袂の中から、篤之進の冊子よりずっと小振りにこしらえ、美しい布で表装した冊子を取り出した。
「私も、このような物を使っておりまする」
 篤之進の冊子のように、ほご紙を切り揃え綴じた物とは違って、美しい和紙を丁寧に切り、太めの朱色の糸で綴じている。
「拙者の物とは、出来が違っておる」
 篤之進の目は、冊子に吸い付けられていた。
 良く見ると、浄殿の冊子の上部に、なにやら付箋の様な物が付いている。付箋には、丸や四角の符号が記されているのが見える。
「この付箋は、なにゆえのため」
 思わず声に出てしまった篤之進は、心まで奪われてしまったようだ。
「これは、兄の友人が考案した物で、『経成具』でございます。
 時を《経》る、種々の事柄を良く《成》すための道《具》として名付けられたと聞いております」
「これに、女として使い易いよう私が考案を加えて、使用しております」
 篤之進は、もはや見合いの場で在ることなどすっかり頭から消し飛んでしまっていた。身を乗り出し、その冊子をのぞき込み、しきりにその『経成具』なる物の仕組みを理解しようと、真剣になっている。浄殿は、ほほえみながらそんな篤之進をじっと見守っている。
 この光景を襖の隙間から覗き込んだ叔父御は、すっかりあきれてしまった。
「篤之進のばかものが、いったいいつに成ったら、一人前の武士に、いや男になるのやら」
 叔父御の深いため息が聞こえて来るようだ。

 見合いはしたものの、篤之進には浄殿の印象がほとんど残っていなかった。
 彼の頭には、浄殿の冊子のことしか残っていない。
 なにせ、旨いものにはまったくもって目のない篤之進であるのに、その日出された、叔母御心づくし手づくしのご馳走ですら、何だったかを思い出せない始末であった。
「なにを食べたか、いっこうに思い出せぬ」
 苦々しくいう篤之進である。
「浄殿と言えば、黒田藩御家中では随一の美人といわれている娘御。篤殿、いかがであった」
 武家の娘は、年頃になると滅多に人前に出ることはない。ただ噂として漏れて来るぐらいのものだった。
 家中の若侍にしても、浄殿をはっきり見た者がいなかった。
 篤之進が浄殿と見合いをしたとの話は、あっというま城中に広まっていた。
 出仕した篤之進の回りに集まった若侍の関心事は、見合いの成果より、浄殿の容貌のようである。
「まるで判らぬ。目は大きかったようだが、色は白かったか、黒かったか」
「これはだめだ。篤殿には、娘御も母御も区別がつかぬらしい」
 皆に、大笑いをされた篤之進であった。
 当時の常識では、結婚について本人の意志は無視されるのが常識だ。
 見合いをするということは、すでに決まっている縁談の確認程度の意味しかなかったと言えよう。
 しかし今回は少しばかり様子が違っていた。浄殿の実家の方がはるかに家柄が良かったこと、見合いの条件として、浄殿の意志を尊重するとの断りが付いていた。
 これも異例と言えようが。
 そんなわけだったから、仲に入った叔父御も心配でならない。
 篤之進を呼出だし、値堀り葉堀り聞くのだけれど、一向に要領を得なかった。
 一方、浄殿の方からも、いつまで待っても返事が来ない。
 どうやら、浄殿自身の態度がはっきりしないらしい。
 どうせだめさとのんびり構えている篤之進と、やきもきしている叔父御、まことにもって対象的だった。
「いつまで、気をもませれば気がすものか」
 叔父御の、いつものぼやき癖が始まっている。

 見合いの日から半月ほども経ってころだろうか、浄殿の家人が手紙を届けて来た。招待状だった。近く開催される茶会への招きである。
 篤之進は、禄高五百二十石の中堅の直参旗本の身分だが、浄殿の父は西国の有力大名の家来で、江戸留守居役二千石以上の禄高であった。
 下屋敷の茶室を使って、毎年姫君の誕生日に茶会が催される。
 浄殿が茶を入れる訳ではない。
 茶会の行われているあいだ、茶室脇の楽堂で琴の演奏が行われるのだった。
 浄殿は、琴の名手とのことである。
「過日は、充分なお話も出来ず、心残りでした。気候も良くなっております、ぜひお運びくださいませ」
「む……」
 思わず、うなり声が出てしまうほどの達筆だ。
「返書を書くのが恥ずかしい」
 性格そのままの、豪快闊達な文字を書く篤之進である。早く言えば、悪筆である。
 その上、茶会などという品の良い催しなどには出席した経験もない。
「こまった・・・・」
 そんな篤之進の気持ちなど、まったく理解したくもない叔父御である。
「何を着せて、送りだそうか」
 自分のことでもないのに、そわそわ家の中を歩き回っては、叔母御に話かけるものだから、すっかりとあきれられてしまっている。
 そのさまがおかしいと叔父御の家の飼い猫も、笑っているらしい。
「ミャ〜〜〜〜ハッハ」
 とにもかくにも、期待半分、不安半分で、茶会の朝を迎えた篤之進である。

 茶会は黒田藩下屋敷で開催された。
 さすがは島津、細川とともに九州を代表する黒田藩である、下屋敷といってもその規模は、なまじの親藩の上屋敷をもしのぐ大きさだった。とくにその庭園の見事さは格別であり、およそ庭になど関心のない篤之進ですら、「見事じゃ」
 感嘆をもらしたほどだった。

 茶会は八ツ(午前一〇時)よりはじまり、九ツ半(午後一時)に終わる。正式に藩より招待された主客は、それから遅い昼食を屋敷内でふるまわれるのだが、篤之進のように、藩士が個人的に招いた客は、下屋敷をでて、それぞれの招き主により近くの料亭へ場所を変えて、昼食となるのが習わしだった。
 今日は、すっかり興奮している叔父御夫婦より朝早くから起こされ、髪の結い直しをさせられ、風呂にまで入れさせられた篤之進であった。  あげくに、叔母御の見立ての、仕立ておろしの唐桟を着せられて、送りだされた。
 普段は、ごわごわした木綿の着物を愛用している篤之進である、薄い生地で身体にまとわりつくような唐桟は、
「どうにも、歩きにくくてかなわぬ」
 すそ回りばかりを気にして歩いている。
「おや」
 すそが、気になって下を見ながら歩いていた篤之進は、池のほとりの植木の下からのぞいている、小振りな冊子に気がついた。
「淨殿の冊子に似ている」
 ひろって、手に取ってみたが、
「『経常具』が付いておらぬ。淨殿のものではなさそうだ」
 しかしそれは、いかにも娘が持つように美しい錦の生地で表装された冊子で、こしらえも淨殿のものそっくりであった。
「淨殿の、朋輩の持ち物らしい」
 淨殿に会ったら渡そうと、中もあらためずに懐へと入れてしまった。
 篤之進が、会場となっている池の中央のあずまやに到着したころ、すでに茶会は始まっており、並列して建てられた離れ風の小部屋から琴の音が聞こえていた。
 藩客として招かれた人たちは、あずまやに入り、姫様直々に点てられたお茶をいただくのだったが、篤之進のようにただこの茶会の催しに招かれた藩士の客は、池の回りにしつらえた椅子にかけて琴の音を楽しんだり、庭園を散歩したり、あるいは招いた主の藩士などと、ここかしこで談笑をかわしているのだった。 
 篤之進を招いたのは淨殿である。その招き主の淨殿は、今まさにその琴の演奏に打ち込んでいるのだから、篤之進には相手をする者がなかった。
 もっとも、そのことは事前に知らされたおり、茶会が終わった九ツ半に会うことと手はずが整っていた。
 今日は、淨殿の父君ともお会いすることになっている。
「淨殿の父君とは、どんなお方であろう」
 ぼんやりと考えながら、池のほとりを歩いていた篤之進は、淨殿がいて琴を弾いているはずの、小部屋のほうが突然騒がしくなったのに気がついた。
「何事であろう」
 そこに淨殿がいるはず、そう思うと思わず走りだした篤之進であった。
 篤之進は、低い生け垣を越え、小部屋と茶室をつなぐ渡り廊下に近づいた。
 騒ぎを耳にしてまだいくらも時間はたっていない。
 篤之進がその廊下で目にした物は、倒れた一人の娘と、介抱している二人の娘だった。
「いかがなされた」
 篤之進が声をかけた時、振り向いた娘はまさに浄殿であった。
「これは、篤之進様。ちょうど良いところにおこしいただきました。女ばかりゆえ、心細く思っていましたが、安堵いたしました。私が部屋で琴を弾いておりましたところ、この廊下にて人の争う物音がいたしました。ただならぬ様子ゆえ、こちらのお篠様と二人にて部屋の外にでてみましところ、この通りお由紀様が倒れておりました」
 気は失っているが着衣の乱れもなく、これといった外傷もない。
(おそらく、ひどくおどろいたことによる失神であろう)
 篤之進はそう判断した。
「どこか静かなところで休ませたが良かろう。傷はなさそうです、しばらく休めば、気が付かれるでしょう」
 それまでは、恐くて部屋の中に隠れていたらしい数人の娘達が廊下へとでてきた。
「皆様、お由紀様をお部屋にお運びしてください」
 浄殿はテキパキと娘達を指揮し、小部屋にお由紀という娘を運び込み寝かせた。
 気が付いたお由紀が話したことは、まことにもって奇異であった。
「私の演奏が終わって、お浄様に替わっていただきました。次の演奏まではだいぶに時も有りますゆえ、しばらくお庭など歩いてみようと外にでました」
 浄殿の煎れた煎茶の茶碗を両手で拝むように持っているのだが、その手が震えている。
「お部屋からでてすぐに、渡り廊下の端に人がうずくまっているのに気が付きました。着ている着物が女物でしたから、お仲間のだれかだと思いましたが、うずくまっているのも変でしたし、薄絹の衣を頭から被。ていたのも妙でした少し恐ろしくも有りましたが、そばに寄って話しかけてみました」
(かなり、気の強い娘御だな)
 篤之進は思った。
「始めは、いくら話しかけてもなにも答ません。思いあまって、顔を見ようと、衣に手を掛けましたところ、・・・・・」
 手にした茶碗を口に運び、茶を飲もうとするのだけれど、茶碗の縁が歯に当たってカチカチと鳴った。
「突然、パッと衣が宙に舞って、娘が立ち上がりました。立ち上がりざまに振り向いたその頭に二本の角が見え、大きく開いた口にも大きな牙が。えましたそれで、・・・・。後は、なにも覚えておりません」
 ちょうどその時で有った。部屋の外でまたもや激しい悲鳴が聞こえ、明らかに人の倒れた物音が聞こえた。
 立ち上がりざまに太刀を握ると、篤之進は部屋をでた。篤之進が見た物は、渡り廊下の先、母屋の角を衣をひらつかせながら曲がって行く小柄、娘の姿と廊下にうつ伏す二人の娘の姿であった。
 二人の娘の話も、お由紀殿の話とほとんど同じだった。ただ、その物の現れ方が違っていただけだった。
「母屋の方から、廊下へ曲がったとたん、突然に目の前に大きな物が立ちふさがりました。ええ、たしかに角が生えた、真っ赤な鬼の顔でした」
 二人の娘は、たがいにうなずき合いながら話した。
 二人の話を聴き、お由紀殿もう、ずいて、
「私の見ました物も、たしかに鬼大きな赤鬼でした」
 三人もの目撃者が出たことにより、渡り廊下に『鬼が出た』ということは、居合わせた娘達の心に大きな恐怖を与えてしまった。
 しかたなく篤之進は、娘達を警護するため茶会の終わるまで、廊下に座り続けなければならないはめになってしまった。

 茶会が終わって早十日が過ぎている。
 月も代わって六月となり、日中の日差しは焼け付くように暑いが、そこは六ツ(午後六時)ともなれば、まだまだ吹く風が涼しかった。
 浅草は東仲丁、大川に掛かる東橋の袂に『花ぶさ』という料理屋がある、なかなか旨い物を食べさせるとの評判であった。
 茶会の日の事件を篤之進は叔父御に話していない。それでなくても心配症の叔父御のことである、よけいなことを話したのでは何かと煩わしい。こと浄殿のことについては、何も話さないことにしている篤之進である。
 この料理屋は茶会の返礼にと叔父御が用意した席だった。
「先日は、お招きしておきながら、すっかりご足労をおかけしてしまいました、まことに申し訳ありませんでした」
 夏物の薄手の着物で装った浄殿は、これまでに会った時とは雰囲気が違っていた。いかにも高禄の武士の姫という固い感じが薄れ、若い娘のさわやかな色気が漂っている。
 いくぶんは打ち解け、篤之進に心を許しているからかも知れない。
「その後なにかおかしなことが起こっていますか」
 若い女性と差し向かいであり、酒を飲むわけにもいかず早々に食事を終わって篤之進が聞いた。
「いいえ。あれいらい、これといった事件は起こっていないのですが、あまりにも娘達が騒ぐものですから、内密にするのに骨がおれました」
 屋敷に鬼がでるなどという話しが公になってはなにかと面倒と、浄殿と主だった者が、娘達に厳しく口止めをしたようだ。
 騒ぎを知っている者は、藩中にもあまりいないとのことだった。
「いちおうは、真相を明らかにしておきませんと、次の催し物にも差し支えますし、困っております」
 どうやら、浄殿が真相究明の責任を負わされてしまったようだ。
「庭には警護の藩士も居りましたゆえ、不振な男が出入りいたしましたらすぐにでも判ると思いましたが、あの時刻に出入りした男はいなかったとのことでした」
 本当は、たった一人篤之進殿がおられましたのに、と言った時に、篤之進を見た浄殿の目に、
(なんとも言えない色気がある)
 ドキッとした篤之進であった。
「襲われた三人は、それぞれ藩の重職の娘でございました。私の琴の弟子で、三日に一度稽古に通っているのですが、自由に男の方と話しをするようなことも無い身分の高い方達ですから、恨みをうけるような男性も思い浮かばないようです。これは、やはり偶然にあの娘達が災難に合ったと思うしか無いようです」
 手がかりが、まったく無いと浄殿は途方にくれている。
「本当に、男だったのでしょうか」
 先日の様子を思い出しながら篤之進が言った。
「三人とも、大きな男で、鬼の様な顔をしていたと申しております」
「鬼の顔は、面を付けていたとして、頭から衣を被っていたようですし、私が二度目の時廊下で見た姿は、大男というよりむしろ小柄の娘のようでした」
「鬼の面を見て、ビックリしてしまい、大男と勘違いした、そういうことでしょうか」
「若い娘のことですし、恐い物を見たとしたら、印象が実物よりはるかに大きく膨らんだことも十分考えられますね」
 浄殿は、しばらく考え込んでいたが、
「鬼の面を被ったのが、娘だったとしたら、三人が襲われるのもうなずけることがありまする。三人とも身分の高い方の娘御でしたから、たしかに軽輩の娘などを軽く扱うこともありましたし、私もたまりかねて注意したこともありましたから、三人を恨んでいる者も少なくはないと思われます」
 男の世界でも、身分の高い親を持つ息子が、身分低い者をいじめる、篤之進の通う道場でも以前は時々見かけた光景であった。もっとも、そんなどら息子を見かけると道場に連れだし、音を上げるまで稽古で締め付けるのを常とする篤之進で有ったから、
(この頃は、だいぶ少なくなった)
 篤之進は思っている。
「いじめられていた娘が、鬼の面を被って仕返しをした。有りそうなことですが、町人の娘ならいざ知らず、武家の娘がそこまでするでしょうか」
 武家ならば、男でもじっと我慢する、そのように教育されている。まして、娘が復讐する、考えにくいことだった。
「もし、そんな娘がいたら、ほめてやりたいくらいですな」
 篤之進のいつわりの無い気持ちだった。
「まぁ、そんなことおっしゃって」
 笑いながら、左の手で口元を隠した浄殿の袖口から見えた腕の白さがさわやかだった。
「そういうことでしたら、してのけそうな娘が一人おりますが、何も証拠が有りませんし、決めつけるわけにもいきませんね」
 事件の前後の経過を書したためて有るのだろう、浄殿は冊子を出し開けて何やら確かめている。
 浄殿の冊子を見て突然、篤之進は思い出したことが有った。
「浄殿。そういえば茶会の日、楽堂の外で浄殿の物と良く似た冊子を拾いました。浄殿のお仲間の持ち物と思い、拾っておいたのですが、あの騒ぎすっかり忘れていました。次にお会いする時にお渡し申します」
「私の物と似た冊子ですか。これは、私の手作りですから、そんなには数も無いはずです。きっと、友達か弟子のだれかの物でしょうね。でも不思議ですわ。 無くしたのなら、私にそのことを隠すことも無いのですから、私が知らないはずも無いのですけれど、だれからも無くしたなんて聞いておりません」 (不思議そうに、考え込んでいる浄殿の風情はなかなかのものだ)
 すっかり、心を奪われてしまっている篤之進であった。
「この次は、私にご招待させて下さいませ」
 浄殿の言葉を、胸の中で繰り返し思い出しながらニヤニヤしながら帰路につく篤之進は、あやうく道端に寝ていた野良犬を踏んづけるところだった。
(にやけ侍め、気をつけろ〜ぃ)
 野良犬が毒づいた。

 場所は浄殿の屋敷である。篤之進の屋敷に比べると少し小さ目ではあるが、なかなか手入れの行き届いた庭があった。神田川の水を引き込んだ池があり、その池を隔てて反対側の離れが浄殿の稽古場になっている。
 稽古は八ツ(午後二時)頃に終わっており、篤之進は八ツ半に招かれていた。
 一通りの挨拶が終わると篤之進は、持参した例の冊子を取り出した。茶会の日に下屋敷で拾った物だ。
「見覚えがございます」
 浄殿は、一目見るなり何やらうなずきながらその冊子を手に取った。
「お知り合いの持ち物ですね」
「私が作りまして、贈った物です」
「さようですか。それでは、持ち主もお判りで、ね」
「さきほど、お稽古が終わった時に先日篤之進様が冊子を拾われたことを皆に話しました。心あたりの方はと訊ねたのですが、誰も知らぬと申しますゆえ、私の作った物とは別の物と思っておりましたが、これは間違いなく私の手になる冊子です」
 浄殿は、篤之進の質問には答えず、独り言のように言った。
 篤之進は不審に思った。篤之進が拾って、いずれは浄殿の手に渡る、そうなれば誰の持ち物かはすぐに明らかになる。いかに師匠から貰った大事の品物をうっかり失って面目無いといっても、発見されたのだし、隠し通せるものでもない。
「やはり」
 冊子を開いて、パラパラとめくって書き込まれた内容を読んでいた浄殿が呟いた。
「持ち主がお判りか」
「持ち主も、その持ち主が自分の物と言い出せないわけも判りました」
 その時、ふすまの向こう側でコトリと音がした。
「おけい様、お入りなさい」
 厳しい口調で浄殿が命じると、襖が静かに開いて、心なしためらいがちに若い娘が入ってきた。
「なにもかも判りましたよ。おけい様」
 娘がうつむいているので、顔は良く見えなかった。武家の娘だということは、服装で判かったが、着こなしや、髪形が妙に粋な感じがする。
(なにやら、町屋の娘のような)
 篤之進は思った。
「茶会の日のいたずらは、あなただったのですね」
 娘は、うつむいたままうなずいた。
 おけいという娘は、篤之進が思った通り、町屋の娘として育ったとのことだった。黒田藩出入りの呉服問屋で、江戸でも名高い資産家でもある菊屋新右衛門の孫であった。おけいには二才年上の兄が有って、子供のいなかった黒田藩江戸勘定奉行の家に養子に入っていた。兄が養子に入るとき、妹のおけいも一緒に養子となった、しかるべき武。に嫁にやろうとの新右衛門の意志であろう
 おけいは一七才、町屋の娘と言っても資産家の家の子である。娘一通りの稽古もし、貧乏御家人の娘などよりははるかに行き届いた教育を受けていた。  頭が良い娘であったし、運動神経も優れていた。舞などは、藩中随一と噂されている。容姿も人並以上に優れているし、祖父方から充分な援助があって、裕福でもあるので着ている物も贅沢であった。そんなことから、藩内の、特に身分の高い親を持つ娘達に嫉妬され、なにかと意地悪をされていたらしい。
 おけいの計略はなかなかのものだった。
 あらかじめ、最近江戸の町々で広がっている『噂』を稽古の控えの間で仲間に話している。
「意地悪をしたり、わるさをしたりする子どもが次々と鬼に襲われている」
 ばかばかしいほどに、たわいの無い作り話だが、ふだん自分の屋敷から出ることなどほとんど無い武家の娘達は、
「そんな、信じられませんわ」
 口では言いながらも、まったく否定も出来かねるそんな雰囲気が出来上がっていたようだった。
 そんな時に起こった『鬼騒ぎ』である。
「あのお二人なら、襲われてもしかたがないかもしれませんね」
 ひそひそ話が、ささやかれていた。
 襲われた二人の要職の娘達は、このごろすっかりおとなしくなっているとのことである。
「おはずかしいことですが、江戸家老の娘と側御用人の娘とが、二派に分かれてなにかと張り合っております。先に襲われたのが用人の娘で、後の方の一人が御家老の娘でした」
 どちらの派閥にも入らないおけいは、両方から意地悪をされていたらしい。
町人出身のおけいには遠慮も有り、反発も出来ず、ずいぶんと我慢をしていたらしい。
「意地悪をされて、仕返しにあんないたずらをしたのですね」
 浄殿がおけいに向かって言うと、それまでうつむいていたおけいが顔を上げた。
(なるほど、美人だ。浄殿のような、しっとりとした女らしさ、は違うが活発そうで、利発そうで、いきいきとしている)
 むしろ、美少年という感じのおけいの顔を見て篤之進は思った。
「お浄様、それは少し違っています。私は元々町屋の娘ですから、少しくらい嫌みを言われたり、無視されたりしても、そんなことをいちいち気にはしません。私があのお二方を脅かしたのは、他に意地悪をされている皆様がたくさんいらっしゃったからです。身分が低いからって、黙って耐えているのを見ていて、私むしゃくしゃして、許せなくって。それで……」
 後は言葉にならなかった。
 篤之進が拾った冊子には、詳細にこの『脅し』の計画が書き込まれていた。
 鬼の面や、背を高く見せるために履いた高げたを用意し、おけいに渡した者がいたらしい。
(男だな)
 思ったが篤之進は黙っていた。
「篤之進様、この始末どのようにいたしましょうか」
 問われた篤之進で有ったが、先ほどおけいの話を聞き、むしろ
(なかなか良くできた娘だ)
 思っているものだから、答えようがなくうつむいてしまった。

 夏の盛りの真昼だというのに、広い池とうっそうとした林にかこまれた下屋敷は、少しも暑くなかった。
 篤之進は、今日の八ツ(午後二時)に、茶会に居合わせた娘達を、楽堂に集めるよう浄殿に頼んでいる。
 ことわりがなされているのであろう、刻限より少し早く着いた篤之進であったが、門番に名前を告げると、ただちに楽堂に通された。
「お暑くなりましたですね」
 冷たくした麦湯を運んで来た下男の老爺は、湯呑みに濡らして絞った手ぬぐいをそえてだした。炎天下を歩いてきた篤之進の額に浮いた汗が、目に付いたのであろう。
「かたじけない。ぞうさをかける」
「いえいえ、お浄様からお話を承ってございます。わたしからもお願いでございます。おけい様を、あまりお叱かりにならないよう、よろしくお願いいたします」
 頭を畳にすり付けるようにしている。
「本当に気性の良いお嬢様です。下町育ちの江戸子気質からのいたずらでしょう。それも、ご自分のためではなしに、ほかの、いじめられている皆様のためにいたしましたことと、こんな年寄りでも感じております」
 篤之進もそう思っていた。
(うやむやにするのは、良くない。されど、おけい殿を責めてもしかたが有るまい。かといって、家系をかさにきた三人の娘も、そのままにはしておけぬ)
 四半刻も待ったであろうか、表が騒がしくなり、浄殿とともに十数人の娘達が入ってきた。
「お待たせいたしました」
 ひさしぶりに聴く浄殿の声である、嬉しくなった篤之進の顔が、いくぶんゆるんだようだった。
 篤之進の前に娘達が座った。平静を装ってはいるが、若く美しい娘達を前にして、嬉しくもあり、恥ずかしくもある篤之進だった。
「本日、皆に集まってもらったのは、先日の事件のおり、たまたま拙者が居合わせたことと、浄殿からもご依頼があったことにより、事の顛末につき、いささか調べたところ、ようよう真相らしきものが明らかになったことによる」
 せいいっぱい重々しく、言葉をえらんでいるつもりの篤之進であるが、少しばかり声がうわづっている。
(どうも、若い娘はにがてだ)
 先ほどの、下男の話からも、家中の大人達には、事の真相がほぼ明らかになっていることが想像される。しかしながら、極端に情報流通の少なかったこの頃の武家の娘達である、
(この娘達は、何も知らないであろう)
 篤之進は確信している。
「弱い者いじめをする子どもを、鬼がこらしめを行う、その噂について調べてみた。鬼の正体はさだかでは無いが、そのような事実は確かに有った」
 娘達の中で、かすかなざわめきが起こっている。
「襲われた子どもも調べたが、たしかに根性が曲がっており、こらしめられてもしかたの無いような者どもであった」
「先日、この楽堂に現れた物が、本当に鬼であったなら、襲われた娘御は、町で襲われた子ども同様に、根性の曲がった人間の屑ということになる」
 娘達に動きが有った。先日襲われた三人の娘の廻りから、他の娘達が少しづつずれながら、離れて行く。
 いつのまにか、真ん中に三人を残して、他の娘達は部屋の後ろ隅に離れてしまった。残された三人の娘は、真っ青になっている。
(なんだかんだと言っても子供だな、かわいいものだ)
 篤之進は思った。
「しかし、拙者はそうは思わぬ」
 わざと、言葉に間を置き、ゆっくりと言った。
「先日現れた物が、噂の鬼であったなら、ただ前を通り過ぎる、それだけでは済まなかったはずだ。町で襲われた子ども達は、みな重傷を負っている」
「襲われた三人の娘御についは、拙者も少々の噂は聴いている。が、町の子供ならいざ知らず、いずれも身分のある家の、たしなみのある娘達である。根性までは悪いはずはなかろう」
「ただ、このままでは、武家の娘にも有るまじき、腐った根性の娘に成りかねない。心配した誰かが、そっと注意をしたのではないかと思う」
 そっと、浄殿の方を見ると、浄殿はかるくうなずいた。篤之進の真意が解ったようだ。
 篤之進は、持参した包を開き、鬼の面を取り出した。
「事件の有った当日、渡り廊下の下で、この面を発見した。先日の物が本当の鬼ならば、面はいらぬはず。三人が見た鬼の顔がこの面であれば、それは、人間が化けた鬼ということになる」
 三人は、鬼の面を見ながら、ヒソヒソと小声で話合っていたが、やがて声を合わせた答えた。
「私どもが見ましたのは、たしかにこの面でございます」
「うむ。それでは、そなた達が見た物は、鬼では無く、鬼の面を付けた人間であった。そういうことになる。よろしいな」
 三人は、うなずいた。
「では、そち達を脅かした者がいることになる。これから、その詮議を始めるがよろしいな」
 せいいっぱい、渋い顔を作って篤之進が言った。
 この時、三人の内では、もっとも年上である家老の娘の園絵が顔を上げた。
「篤之進様。それにはおよびません。あの日から、私達は本当に恐ろしうございました。
 あの鬼が、噂の物であったなら、私達は心の曲がった、卑しい人間ということになります。そう思うと恐ろしくて夜も眠れませんでした。
 篤之進様がおっしゃる通り、あれが鬼では無く、人が鬼の面を被っていたのでしたら、こんなに嬉しいことはありません。
 どなたかは存じませんが、私達の奢る心をいさめるために、鬼の面をつけてくださった、そう思います。
 感謝こそすれ、怨む気持ちはございません」
 うっすらと涙を浮かべ、それでも武家の娘らしく堂々と答えた。
「よくおっしゃいました、園絵様。女というものは、夫を守り、子を守り、家を守って御奉公するもの。奢りや、他人をさげすむ心や、人を怨むことで、心が濁っていたのでは、良い御奉公はなりませぬ。今回の事を良き教訓にして、素直でやさしい、良い女性に成長してくださいね」
 浄殿の言葉には、三人の娘達に対する暖かい優しさがあふれている。
「皆様、私達、これまでずいぶんと意地悪なことをしてきたと反省しています。本当の鬼に襲われる、そんなことの無いように、一生懸命良い人間になるよう努力しますから、これからも仲良くして下さい」
 三人の娘は、向き直って部屋の隅にかたまっている朋輩に頭をさげた。
 どうなることかと、隅に寄っていた娘達が、あっという間に三人の廻りを取り囲み手を取りあっている。
(良い娘達だ)
 篤之進は思った。

 皆を帰してしまってから、篤之進は庭に出た。鯉が泳いでいる広い池のほとりに立っている、そばには浄殿とおけいがいる。
「篤之進様、本当に有り難うございました。これであの子達も良い娘になりましょう。それに、おけい様も、すこしは懲りて、おとなしくなるでしょうしね」
 おけいの方を振り向くと、おけいは小さく舌を出している。
「これ!」
 とがめる浄殿の顔は、とても怒っているようには見えなかった。むしろかわいい妹を見る、そんな目だった。
 この後、篤之進と浄殿の関係は、一向に前進も後退もない、不思議な状態が続くのだったが、すっかり篤之進を兄のように思ってしまったおけいが、しょっちゅう篤之進の屋敷に出入りするようになり、それに加え、恋人の八丁堀同心とともに、次々と難事件を持ち込むようになるなんて、この時の篤之進には想像もできないことであった。

−  完  −




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