時間管理人

時間管理人

   湯島殺人事件
      発表日 2003/05/04
   (一)

「そな〜、せっしょうやわぁ〜」
 左手にコーヒーを三人分のせた銀のトレイを持ち、キッチンと長官執務室とを隔てるドアのノブに右手をかけたその時、山野林檎の耳に、うめき声とも泣き声とも叫び声ともつかない、異様な声が飛び込んできた。
 長官との、朝のたいくつな事務連絡を終えた秘書の林檎が、これも毎日の習慣になっているコーヒーブレイクの準備に、キッチンに入ろうとした時、珍しく、真面目な顔つきの頓田寛祭が長官室に入ってきた。
 林檎に会うのが目的で、用のないのに何かと長官室に来たがる寛祭だったから、彼のお茶の時間の訪問は、林檎の煎れたコーヒーをせしめるのが目当てなんだろうと思った林檎は、苦笑しながらもキッチンに入り、三人分のコーヒー豆をミルで挽いた。
 キッチンには来客用のコーヒーカップのセットの他に、長官が愛用している美濃焼きの濃い茶色の重厚なマグカップと、林檎が長崎を旅行した時に見つけ、気にいって買った藍色の小振りのカップが二客置いてある。
 林檎がカップを二客買ったのは、長官が出張で留守の時などに、遊びに来る寛祭のような同僚のためである。
 寛祭の分には少し多めにコーヒーを入れ、いつもたっぷりと砂糖を使う寛祭のために砂糖を入れたガラスの容器もトレイにのせていた。
 ノブにかけた手を引いて、ドア越しに中の様子を窺った林檎だったが、小さな咳払いを一つしてから、ドアを開け中に入っていった。
 部屋には、幅が二メートルもあろうかと思われる大きな机を前に置き、これまた大きな椅子にどっかりと座った遠山平蔵と、机の前には、情けない顔をしてうなだれている部下の頓田寛祭が立っていた。
「江戸時代の小判を百枚も集めるなんて、簡単にはできない相談だろう、なぁ頓田」
 80キロを軽く超す体重を持つ大柄の長官の声は、太く良く通る。
「なぁ〜、おかしらぁ、22世紀の技術をあんじょお使えば、当時とまるっきし同じ小判を作ることなんか、簡単やおまへんかぁ」
 寛祭は、両手で長官の机にしがみつき、必死の形相で訴えた。
「なんだと、頓田。お前は政府に『偽金造り』をさせる気か?」
 じろっと睨んだ遠山の細い目に見据えられ、寛祭は半歩ほど後ずさりし、我慢しきれなくなって、膝を付いてしゃがみ込んでしまった。
「に・偽金なんて、そ・そな、おおげさやわぁ。おかしら〜ぁ、そなこと言わはるけど、だれが見てもわからへんのやったら、それ本物とちぃっともかわらへんのやちがいまっか。それさえあれば、話しは簡単でおます。二・三日で任務はおしまいだっしゃろ。なぁ、おかしら〜ぁ」
 ほとんど泣きべその寛祭だ。
「お前は時間管理人の仕事を何と心得ておる」
 立上がった遠山の形相はものすごかった、まるで仁王である。
 もっとも、本来の遠山の性格はというと、やや短気ではあったが、気さくで真面目で、おっちょこちょいが玉に傷の、ごく明るいものである。
 ただ、仕事となると性格が変わる。
 いや、変わるというよりも《変えている》と言った方が当たっているようだ。
 ちょうど、役者が登場人物に成り切るように、性格を変えるのである。
 そんな時の遠山は、町奉行所の白砂の前に座った奉行のつもりなのである。
 遠山は椅子から立ち上がると、大声でどなった。
「時空のズレを直すのが我らが任務。現代から偽金を持って行く、それがまたズレの原因になることもわからんのか、バカ物め。ぐじゃぐじゃ言っとらんで、さっさと行け!」
 言い終わって、満足げにゆっくりと腰を降ろした遠山の顔は、すっかり緩んでしまっている。
 反面、がっくりと肩を落とし、長官室をでようとしている寛祭の方は哀れだった。
 それでなくとも、背の低いうえに太っている寛祭である、うなだれて歩く姿は、屠殺場に引きずってゆかれる豚のようだ。
「どないしたらええんやろう……」
 ぶつぶつと、つぶやきながら歩く寛祭には、部屋に入ってきた林檎の姿も目に入らなかったらしい。いつもの寛祭なら、他愛のない冗談を言い、あわよくば林檎のお尻でも触りたがるのが常だ。
「おかしら、寛祭さん一人でだいじょうぶでしょうか?」
 コーヒーカップを、ワゴンから長官の机に置きながら、ちょっと心配になった林檎がたずねた。


     (二)

 時間管理省の警察部門が、その男を上野広小路の路上で発見し現代に連れ戻したのは一昨日のことだった。
 二ヶ月ほど前に起こった事故で、その男は江戸時代は文化五年に飛ばされたのだったが、当局の懸命なる捜査にもかかわらず、なかなか発見できなかった。
 男は「スリ」の常習犯で、指名手配中だった。
 彼の気持ちとしては、そのまま江戸時代に隠れ住みたかったのだろう。
「金も持たへんで、二ヶ月もどうやって生活しとったんやろか?」
 担当になった寛祭は気が重かった。
 二ヶ月も別の時代でうろうろされたのでは、時空のズレ(ψ値)もかなりの量になるだろう。
「めんどうなことや」
 寛祭の尋問に、男は答えた。
「えへへ。申しわけありません。え、生活費ですかぁ。その〜ぉ、実は、広小路の雑踏で、ちょいと、その〜ぉ、スリを働きました。え、金額ですか? あれは〜ぁ、小判って言うんですか、金でできた平べったいの。そうそう、それが、百枚ばかり」
 商家の旦那風の男の懐中から、財布に入った百両の金をすっていた。
 念のためにψ値を測定して寛祭はビックリした。
 ただ百両の金を盗んだだけとは、とても思えないほどの、数値をしめしている。
「こら、あかんわぁ。あいつめ、とんでもないことしでかしとるんやぁないじゃろか」
 調査員がただちに派遣された、そして恐るべき報告書を提出してきた。
 寛祭の心配は見事に的中しのである。
 調査報告書を受け取った寛祭は真っ青になり、あわてて長官室に駆込んだ。
「おかしら、それが、すられたのがなんと、広小路の木曽屋の主人やゆうじゃおまへんか。びっくりしましたぁ。木曽屋言うたら、今でも上野にあるMデパートの前身やっしゃろ」
「うむ、Mデパートは江戸時代から続く老舗といわれているな、豪商だろう。百両くらい盗まれたからって、どうと言うこともなかろう」
「へぇ、わてもそれしっとったやさかい、大したことあっらへんと思いましたんねん。ところがどっこい、ほいさっさ」
「なにがほいさっさだ。真面目に報告しろ、頓田」
「すんまへん……。ところがでんねん、おかしらぁ。文化五年ゆうたらぁ、まだ木曽屋が江戸に出て商売始めたばかりでんねん。百両の金は、大きな商売をするためにゆうて、金貸しから借りた金だったそうでんねん。そやさかい、金を無くしては、木曽屋が潰れんのも時間の問題やて、近所の噂になっとりまんねん」  遠山の顔にも、にわかに緊張の色が浮かんだ。
「なに、文化五年に木曽屋が潰れるなんてことになると、現在あるMデパートの本店・支店、二十数店舗は存在しないことになる。それだけじゃあない。Mデパートの先々代の社長は、豊富な資金をバックに政界に強い影響力を持っていた政商だったはずだ。歴史が大幅に変わってしまう。ψ値は跳ね上がるぞ」
「へえ、推定で三十位でっしゃろ。えらいことやぁ」
「馬鹿野郎。のんきに驚いている場合ではないだろう、頓田。すぐに文化五年に飛んで、百両の金を工面し、主人にそれとなく返しておけ」
「え、工面?」
 寛祭には、遠山の言っていることがすぐには理解できなかった。
 怪訝な顔の寛祭に、
「お前が文化五年の江戸に行って、自分で働くなり、知恵をだすなり、何が何でも百両作って、主人に返すんだ」
 寛祭の悲鳴が飛び出したのである。

    (三)

 21XX年、画期的な技術革新により物流システムが変わった。
 物体を素粒子に変換して、搬送するシステムが完成されたのである。
 それまで、全国各地にはりめぐられていた道路網は、直径2メーターほどのパイプに形が変わった。
 開発当初は、その根本原理も明確になっていなかった。
 しかし、この時代、地球環境は最悪の状況を迎えており、まったく排気ガスなどを出さず、環境に悪影響を与えないこの新物流システムは、
「危険が有っても採用せざろうえない」
 首相の決断だった。
 全国にあった、燃料を使った輸送機関はすべて使用禁止となり、空気は見違えるようにきれいになった。
 ところで、まだまだ未完成なシステムだったから、時々事故が起こる。
 号音と共に変換機が爆発し、送られるべき荷物が無くなった。
 それが、荷物だけならばたいして問題はないのだが、時々付近にいた人間までが姿を消した。
「どこか他の場所に転送されたのだろう」
 システム運営会社は必死で探したが見つからなかった。
 そんな事故が数件発生していたころ、この搬送システムの理論解析を研究している学者のチームが学会で画期的な発表を行なった。
「この搬送システムには、時間を越えても搬送する能力がありそうだ」
 行方不明の物体や人間は、他の時代に送られているとの研究発表だ。
 学識経験者達はこの発表を聴いて驚愕した。
 遠い過去の時代に、現代の物質や人間が送られると
「歴史が変わってしまうのではないか」
「過去が変わった場合、その瞬間に現代も変わるはずだ」
「変わっても、現代人はそれと気がつかないことになる」
「現代の存在そのものが、否定されることもありうる。過去に行った人間が大規模な戦争でも起こして、地球を破壊することだって考えられる」
「それでは、我々の未来は信じられなくなるではないか」
「そういうことになる。すでに100年前に地球が消滅している、そんなことだって考えられる」
 パニックになった。
 そこで、政府は膨大な研究費をつぎ込んで時間のファクターを中心にした研究開発を行なった。
 数年後、不完全ながら時間を行き来する機械が開発された。
 さっそく、過去に飛ばされた人間と物資の回収作業が開始されたのはいうまでもない。 過去と現在とを往復するうちに、時間についての知識が蓄積され、そのメカニズムがはっきりしてきた。
「過去は存在する、しかし未来は存在しない」
「時間の最先端が現在で、過去はその残像として存在する」
「過去は残像であるから、過去を変えても、現在は変わらない。しかし残像とはいえ時間は独自に経過する。現代と異なった別種の現代がいずれ存在してしまう」
「時間空間上で、異なった現実が複数存在すると、時空にストレスが発生する」
「ストレスが増大すると、最後には宇宙そのものの破壊となって終わる」
 宇宙の発生のメカニズムもはっきりしてきた。
 過去が変わっても、現在に影響が無いことがはっきりした時には、飛ばされた人間だけを回収すれば良いのではとの意見もでたのだったが、放置することが宇宙の破壊につながることが証明され、政府は重い腰を上げた。
 正式に「時間管理省」が設置され、どの時空も現在と同じになるように管理することになった。
 タイムトラベルが技術的に完成してから、すでに十年が経過していた。この間に、おびただしい数の人間が過去と現在の間を行き来している。すでに、無数の異なった時間の流れができてしまっているのだった。放置すればストレスは増大するばかりである。
 過去の時空に担当官を派遣し、時代の流れを修正する、それが「時間管理省」の任務だった。


 頓田寛祭は大学を卒業すると同時に時間管理省に入省した。
「わて、役人になったで。最先端の仕事や。宇宙を守るナイトみたいなもんやなぁ。かっこいい仕事や。わてにピッタリや」
 彼を知る友人達は、
「政府には、人を見る目が無いのか」
 と、唖然としたという。
 時間管理省の長官には、遠山平蔵が就任している。
 遠山は、正式に過去に行った、最初の人間だった。
 四十六歳と、中年ではあるが、百八十センチの身長と九十キロの体重を持つ大男である。
 始めて過去に行った時、ある事件にかかわった。
 そこで知り合った実にきっぷ良い粋な男が、たまたま同じ遠山という姓だったことから意気投合し、義兄弟になった
 この男こそ、後の江戸町奉行・遠山金四郎その人だった。 
 兄弟分の杯代わりにと、おそろいの「桜吹雪」の刺青を入れたという。
 次に過去に行った時に、「鬼平」こと火盗改め長官、長谷川平蔵に惚れ込み、名前を「平蔵」に改名してしまった。
 病こうじて雨あられ、自らを省内での正式な役名である「長官」とは呼ばせず、火盗改めにならって「おかしら」と呼ばせている。
 見た目には、いかにも高級官僚という風格の遠山だったが、なんともおっちょこちょいの性格である。
 無類の酒好きの遠山は、宴会のたびに片肌脱いで
「この桜吹雪が目にへえらねえのか」
 だれも見ていないのに、一人でやってい。
「こまったおかしらでおますなぁ」
 自分も同僚たちから、「鼻つまみ」になっていることも知らず、ぐちをこぼす寛祭である。


         (四)

 12月始めの江戸の町は、すっかり冬の色が濃くなり、寒い日が続いていた。
 湯島天神の男坂を下ってすぐ南側に同朋町がある。
 そこに、時間管理省が小さな家を持っていた。
 寛祭のような時間管理人が、目立たず、ひっそりと仕事をするための隠れ家である。
 同朋町と木曽屋のある上野広小路とは目と鼻の先である、ここならば、それとなく木曽屋の動きを見守る事もできる。
「まさにおあつらえ向きの家やなぁ。それに、まだきれいやないか」
 寛祭は以前にもこの家を使ったことがあった。
 その時に派遣された時代は幕末にも近い万延年間だったから、今回の文化年間からすると、60年近くも後の時代になる。
 家はまだ新築同然だった。
 その家は、小さいながらも庭を持つ二階屋だ。
 階下には、格子戸に二畳ほどのスペースを持つ玄関に、六畳が二部屋、奥が土間で台所になっている。
 二階にも四畳半と六畳の二部屋があり、一人住まいとしては広すぎるくらいだ。
 長官室から出てゆく寛祭を追いかけてきた林檎のアドバイスで、寛祭はここで易者を開業することにしたのだ。
 時間管理省の資料室には詳しい歴史資料がある。管理省の調査官が実際に各時代に出張し調査したものだから正確である。
 寛祭はこれを借り出し、必要な部分をコピーした。この資料を元にすれば、景気や気候や、こまかい出来事までも、正確に予言することができるはずだ。
 霊感も、易者の才能もない寛祭だが、これならば百発百中である。
 派遣にあたって管理省から受けとった手当てで、さっそく上野山下の古着屋に行き、易者らしい衣装を買ってきた。
 易者の小物は浅草橋の道具屋で仕入れた。
「よっしゃぁ、わて、江戸一番の易者になったるでぇ」
 意気揚々の寛祭である。
 まず手始めに、木曽屋の店を斜め向いに見る、広小路の西側の道端で、露天の易者を開業することにした。
「ここならば、木曽屋のだんなも通りかかるはずや」
 管理省の係官が撮影した写真を見ている寛祭だから、木曽屋の主人四郎兵衛の顔は知っている。
 自分の店のすぐ向いに、よく当たる易者が出ているとの評判が立てば、木曽屋の主人もやって来るだろうし、それとなく木曽屋の動静を見張るには、好都合の場所だった。
 易者で稼ぎ、百両を作って主人に渡すといっても、それなりの商人である主人が、すんなりと金を受け取るわけもない。そもそも、易者で百両を溜めるには時間がかかり過ぎる。寛祭がもくろんでいるのは、易を使って主人の信頼を得て商売を盛り上げる。いまで言うコンサルタントをして任務を果たそうということなのである。
「ようするに、店が潰れんかったらええんやわ」
 さてさて、目論見通り、うまくゆくものなのだろうか。

      (五)

「やはり、あと百両ないといけませんか」
「はい、旦那様。すでに仕入れた生地と綿を使い切るにはあと二百両は必要です。ところが手持ちは百両。これでは、造れる着物は半分だけ。生地と綿が余ってしまいます」
 ここは木曽屋の奥座敷。新春の晴れ着にと、上質の綿を仕込んだ晴れ着を大量生産し、格安で売りさばこうと計画していたのだが、綿と、これまた上質の薄いピンクの裏地までは仕入れたものの、肝心の表の布を仕入れる資金が足りな。
 苦肉の策と、高利の金を百両借りた。商売用の借金なので、借りた後の2ヶ月間は、元利共に返済の猶予があったが、3ヶ月目には、金利を含めて百四十両を返さなければならない約束だった。月に20%の高金利である。しかも、これが約束どおりに返せないと、その後は月に40%の割、つまり、毎月四十両が、金利分だけで増えて行く。4ヶ月目には百八十両、5ヶ月目には、二百二十両だ。それでもまだ、単利だから良いようなものの、これが複利だったら目も当てられない。瞬く間に借金が増えてしまう。この当時の人たちにはまだ、複利の観念がなかったのがまだ幸いだった。
 とは言っても、3ヶ月後に払う百四十両の金額は苦しい。それでも、品物が全てさばければ、二百両ほどの儲けになるはずだった。
「百四十両を返済に払っても、六十両の儲けになる。それにこの商売は利益だけが目的ではありません。木曽屋四郎兵衛が、男を張っての安売り。世間様から信用を買うための商いです」
 木曽屋四郎兵衛はそろばんを弾いたのだった。
 それを、うかつにもスリ盗られてしまったのだ。
「あの時もっと注意をしていれば。悔しくてならないよ、番頭さん」
「旦那様。済んだことを悔やんでもしかたがありません。手持ちの資金で仕入れられるだけ仕入れ予定の値段で売ったのでは、四十両の赤字になります。売値も予定よりは少し高くしてとんとんで切り抜けるしかありません」
「そうだね。あれだけの数を売るつもりだったからと計算して付けた値付け、半分しか売り出せないとなると、同じ値段では大赤字になるだろう。しかし、それではこの四郎兵衛の男はかえって地に落ちてしまう……」
「旦那様がどうしても予定の値段で売るとおっしゃるのなら、なんとか返済を待ってもらって、その間に残った生地と綿を使って何か算段しませんと……」
「良い思案はないものだろうか」
 暗〜ぁい雰囲気が漂っています。暮れの寒さが、二人の背中に取り付いたようにのしかかり、
「は〜ぁ」
 二人のため息だけが聞こえる木曽屋だった。

      (六)

 ちょうどその頃、木曽屋とは斜向かいの路上で、寛祭は占いのテーブルを組み立てていた。
「え〜とぉ。この板を横木に乗せて組み立てればええんゃなぁ」
 木曽屋の暗い雰囲気とはがらっと変わって、寛祭はピクニック気分だ。黒い易者の羽織を着込み、頭には帽子をかぶってすっかり易者に成りきっている。
 易者の基本知識は、寛祭憧れのマドンナ、林檎が先生だった。なんでも、学生の頃に占いに凝り、日本古来の易学はもちろん、星占いからタロット占い、なんと、おっぱい占いまで極めたという彼女から、一通りのレクチャーを受けた寛祭である。ただし、おっぱい占いは教えてはもらえなかった、それだけが今でも残念な寛祭である。
「おしかったわなぁ。林檎ちゃんのおっぱいで一度ぜひ、わしと林檎ちゃんの相性占いをしてみたかったわぁ」
 思い出すたび、涎がたれそうになる寛祭だ。最低の品性レベルの男である。
「この黒い布を上において、筮竹と、おっと、虫眼鏡をわすれちゃあきまへんわなぁ」
 ようやく組み立て終わった易台の後ろに、どっかりと座った寛祭である。
 1メートル80センチを越える大男の寛祭である。さすがにこうして易台の前に座ると見た目だけは貫禄がある。
「お〜ぉ、真向かいが木曽屋わぁ。次は、どないして旦那をここに呼び込むか。それが難問やわなぁ」
 一応は、任務を忘れてはいない寛祭である。
「しかしまぁ、今回は臨時廻やし、あんじょう片付けてサッサと帰りまひょ。夏場と違って今は冬やわなぁ。とても夜中は寒くて商売にはなりまへんやろ。易者の仕事は暖かい昼間だけにして、夜は適当に遊ばせてもろうてもばちは当たりまねんやろな」
 誉めた傍から、自分勝手に考えるのが寛祭の得意技。
「なにしろ、官舎の近くは湯島天神やから、居酒屋は選り取りみどりだっしゃろぉ。ちょっと歩けば有名な神田明神下の花柳界もおます。綺麗どころがズラーっと、わしをまってるでぇ〜」
 すぐに鼻の下が伸びるのも寛祭であった。

      (七)

「なあ、八、なにか思案はないのか」
「へぇ、若い娘の気持ちは私にはわかりませんねぇ」
 ここは、神田明神男坂下の長屋。今まさに売り出し中の岡引、「銭亀の平次」の住まいである。受け答えをしているのは、唯一の下っぴき、ちゃっかりの八だ。
 この銭亀平次、後世の江戸風俗研究家であって人気作家、岡本綺堂の名作「銭形平次」のモデルになった男である。
 若いくせに金に汚く、些細な犯罪者ならば、賄賂をもらって逃がしてしまう。まあ、本人は、
「無理に犯人をつくることはねぇ」
 と、うそぶいてはいるが、本音は金が欲しいのだ。
 身体はむしろ小さな方、顔かたちが緑亀に似ているので、人呼んで「銭亀」、しかしなぜか、彼自身、この呼び名が気に入っているらしく、最近は自分でも平気で「銭亀平次」を自称している。彼もまた、変わり者である。
 しかしそこはそこ、町奉行所のスーパースター、常周りの同心から手札をもらって岡引をするからには、それだけの技術を持っている。平次は、礫投げの名人だったのだ。小石を拾って投げる。それはそれは、百発百中、すばらしい腕なのだ。
 彼をモデルに、綺堂先生は銭形平次というヒーローを作り出したのだが、さすがに、銭亀とは書けなかった。そこで、「銭形」と代え、ついでに投げる礫も、「銭形」にちなんで「一文銭」にチェンジして、かっこ良い「銭形平次」を創り上げたのである。しかし私は、本来の彼のままに、ここに書くことにする。
 傍にひかえる大男は、相撲取りになりそこなって平次の手先になった「ちゃっかりの八平」である。綺堂先生は彼のことを、「ガラッ八」と呼んでいる。彼もまた、名作の登場人物のモデルなのだ。
 「ちゃっかり」とあだ名されるゆえんは、一見ずうたいばかり大きくて鈍重に見える彼なのだが、意外や意外、身のこなしは軽く、しかも、ちゃっかりと親分の上前をはねて小遣い稼ぎまでしている。まさに、ちゃっかり者なのである。
 この、風采の上がらない二人が、暮れの寒空の真昼間から、薄暗い長屋で顔をつき合わせて思案しているのには理由があった。
 新年の15日は、中国の暦では「情人節」と呼ばれている。「情人」つまりは「恋人」である。この日は、今で言うところの「バレンタインデー」なのだ。
 この日には、若い娘が、好いた男に「煙草」をプレゼントするのが流行っていた。しかし、ただ待っていたのでは、娘は「煙草」を贈ってはくれない。男の方が、正月のお年玉に、娘が気に入るようなプレゼントを贈る。それが気に入ったら初めて、娘は「煙草」をくれるのだ。
 平次には、お目当ての娘がいた。同じ町内の煙草屋の看板娘の「お静」だ。
 綺堂先生は、「銭形平次」の中で、平次愛妻の名前を「お静」としているが、この煙草屋の「お静」が、モデルであったかどうかは、残念ながら私は知らない。
「今年は、お静ちゃんが、赤が好きだと長屋のばあさんから聞いたから、赤い鼻緒の下駄を年玉にしたのがまずかった。15日に、店の前に行ったら、おれの顔をみて、ぷいっと、横向いちゃったしなぁ」
「そりゃあ親分。真冬に下駄なんて、そんなものお年玉にするなんて、よっぽど馬鹿かまぬけのぉ……。いてぇ」
 平次の礫が、目にも止まらずちゃっかり八の額に飛んだ。

        (九)

「わて、もしかすると天才かも」
 寛祭は上機嫌だった。
 占いの店を開いて以来、客が途切れたことがない。商売はまさに順調だった。
 近くの黒門前で、かれこれもう20年も商売をしているという先輩占い師が、偵察に来たほどの繁盛なのである。
「当たる当たらないは解釈次第、流行るかは流行らないかは占い師の人気、それには、やっぱ人格やわなぁ」
 完全に天狗になっている寛祭である。
 実は、平均的な体格が小柄だった当時の人達の中で、身長1メートル80センチ、体重も90キロに達する寛祭のその体格が珍しく、口調も江戸弁とは一風変わっていて面白い、占によるご宣託よりは、その話っぷりが受けていただけなのだ。客は、よく言えば漫談を聞くつもり、悪く言うと見世物でも見るつもりでで集まってきているのだが、自信過剰、自分のことがまるで見えていない寛祭にはそれはわからない。
 とはいっても、商売繁盛には違いなく、滑り出しはまずまずの寛祭であった。
 ただ一つ、寛祭にも悩みはあった。なにしろ吹きさらしの路上である。
「おーさぶ。なんでこんなに寒いところで働かなければあかんのやぁ。今ごろお頭はぬくぬくとコタツで熱燗でも飲んでるやろなぁ。あ〜ぁにくたらし」  自分で選んだこの場所で始めた占いの商売なのに、理不尽にもお頭を恨んでいる。
「そや、次につなぎがきたら、ホカロン注文したろ」
 本部からは、週に1回は様子を見に連絡員がやってくる。現代から飛んでくる者もあったし、駐在員といって、特別な事件で派遣される臨時廻ではなく、それそれの時代に常駐して監視をする常廻もいたのだ。
 上野地域を担当する常廻の駐在員は、すでにこの道20年のベテランだった。
 彼は、もともと焼き物が趣味だったから、この江戸の町では陶芸家で暮らしている。もっとも、街中で大規模な窯を設えることもできないので、長屋の土間に小さな窯を作り、粘土をこねて小さな人形を作っている。
 そう、現代にも伝統が続いている「江戸手ひねり」の民芸品は、彼が実質的には中興の祖なのだ。ただし、彼も時間管理人である。歴史を大きく変えてしまっては元も子もない。目立たず、あくまでも裏から、すでにあった民芸品に微妙な改良をほどこす手伝いをしているだけであった。それが、時間管理人の心得であるのだから、当然である。
 そんな彼が心配するのが、寛祭の性格であり、日ごろの行状なのだ。歴史を正す目的での派遣が、歴史を変えることになってしまったのではそれこそ大変だ。それを修正するためにまた、何人もの時間管理人が汗を流さなければならなくなる。
「寛祭、あまり羽目を外すなよ。おまえは飲むとするに頭脳表皮が麻痺して正体がなくなるから注意しろと、お頭から言われているからな。いつも監視しているぞ」
 前回は常廻から脅かされもした寛祭だった。
「心配することあらへん。わての脳みそは知識でいっぱいつまってるんやわ。麻痺は表面から順にくるもんや、中まで麻痺させるには、一升や二升の酒では足らんわい」
 22世紀の日本では、人間の頭脳は巨大なメモリーと理解されている。そのメモリーには、生まれてからのあらゆる記録が書き込まれている。勉強をすればするほど、経験を積めば積むほど、球形の頭脳メモリーへは、表面からデータが書き込まれ、古いデータは中へ中へと沈んでゆくと考えられていた。そしてその最も沈んだ奥にある記録が、生まれたときから持っている記録、つまり、動物人間としての基本的な動作に関するデータである。そして、これは、22世紀の科学を持ってしても、未だに解明できてはいない事実なのだが、基本的なモラルに関するデータも、この深いところに書き込まれるらしい。
 酒に酔うとは、寛祭が指摘した通り、アルコールで頭脳メモリーが麻痺すること。その麻痺は、表面から始まり、最も奥まったところに記憶されているモラルの部分や、歩行や言葉を発するなどの動作の部分にまで達すると酩酊にいたると理解されていた。つまり、知識の豊富な人ほど良いずらく、知識の少ない、生まれたままの人間ほど、早く酔ってしまうということになるのだ。
 もとより、量が飲めるという話と、頭脳が麻痺して酔いやすいという話は別である。量は飲めるが酔いやすい人と、酔わないが、量も飲めない人間がいるのだ。
 寛祭は、量だけは馬並みに飲めるのだが、実は、二合も飲むと、すっかり理性を失い、スケベになる、典型的な薄っぺら頭脳の持ち主だったのだ。


        (十)

 番頭から、何か良いアイディアは、と問い掛けられている木曽屋四郎兵衛であるが、いくら自室に篭って頭をめぐらしても、いっこうに良い思案が浮かばなかった。気分転換に散歩でもと、店を出た。
(おや、あんなところに易者がでている。ここのところ数日、思案にばかりふけっていて外にもでなかったからな)
 思いながら寛祭の前を通り過ぎようとする。
(おや、店を出てくるのは木曽屋の主人やおまへんか。こいこい、ここへこい)
 筮竹をこねまわしながら必死で念じる寛祭だったが、四郎兵衛は通り過ぎてしまった。
「ま、いいかぁ。まだまだ時間はおまっしゃろぉ」
 通り過ぎる後姿を眺めながら、あくまでもおき楽な寛祭である。
(あれ、戻ってくるやおまへんか)
 10メートルも通り過ぎてから、木曽屋は思い直し、戻ってきた。
「易者さん。占って欲しいことがあるのですが」
「えへん。まあ、お待ちなさい。ご主人の占いごと、それが何かをまず、占ってしんぜましょう。う〜ん」
 占いの師匠、あこがれの林檎からは、最初に客と相対したときの、キャッチの間合いが重要と教えられている。ここで焦っては相手が信用をしなくなる。かといって遅すぎても間が抜ける。
「む、読めた。ご主人の占いごと、それは商売上のことですな」
「よくわかりますね。そうなんです。この正月発売りの商売について、良い思案が浮かばないのです」
 主人は、事情までは説明しなかったものの、余っている上質のピンクの裏地と、綿を使って、なにか良い商品企画はないか、どんな商品を開発すれば、ヒットするのかを、寛祭に占って欲しいと頼んだ。
(よしきた、まってまいたでぇ。わてのデータベースには、文化5年のこの冬、「綿帽子」が大流行とありますのや。木曽屋には、綿帽子を教えたろ)
「よろしいい、それでは、両手を重ねて台の上に乗せなさい」
「え、これでよろしいので」
 言われるまま、四郎兵衛は左の手を台に置き、その上に右の手を乗せた。
「よろしい。ほ〜ぉ、ご主人は右手だな。商売運を占う場合はじゃなぁ、上になった方の手相を使うのじゃ」
 もったいぶって四郎兵衛の右手を寛祭の左手で引き寄せ、虫眼鏡でジロジロと眺める。それでも足らないとばかりに、筮竹をこね回し、おもむろに言った。
「ご主人、あなたは運がよい。新年はな、かぶり物が大流行すると卦にでておる」
「かぶり物とは、いかようなかぶり物なのでしょうか」
「そうさなぁ。よし、紙に描いてて使わそう」
 下調べした歴史書には、漫画も書かれていたことから、下手なりにも、なんとか絵を描いて、寛祭は四郎兵衛に渡した。
(よ〜しぃ。これでほとんど仕事はおわりやわい。後は確認だけやぁ。今回の仕事はらくちんやったなぁ)
 すっかり任務は終わったと寛祭は思い込んでいた。
 それから数日後、サンプルを作り、四郎兵衛が寛祭のところに持ってくると。
「お〜ぉお。これやこれ。よくできとるなぁ。ご主人。この薄紅色の生地が綺麗だぞよ。これならば、売れて売れて笑いが止まらぬに違いない」
 半信半疑ながら、そこまで寛祭に言われた四郎兵衛も、意を決することにした。さっそく店に戻り、番頭に命じて、あるだけの生地を使ってこの綿帽子の量産を指示した。


         (十一)

「親分、もう今日は大晦日ですぜ」
 お静にプレゼントするお年玉がまだ決まらない平次だった。今日は、浅草まで行き、あれこれと品定めをしたのだが、これといった品物が見つからなかった。
「こまったなぁ、八。来年こそは身を固めろと、明智の旦那からもきつく言われているしなぁ。そのためには、なんとしても、煙草を獲得しなきゃなんねがなぁ」
 金に小汚いだけではなく、その長屋も汚い銭亀平次だったから、南の常廻同心であり、平次に手札を渡している明智五郎は、早く結婚しろと迫っているのだ。
 この明智五郎という同心、実は、後の名探偵、明智小五郎の祖父にあたる。このときはまだ、若干23歳の若さながら、すでに二人の子持ちだった。自分よりも年上の平次が独り者の気楽な生活をしているのが、羨ましくもあったようだ。ちなみに、明智は恐妻家であり、上司の娘だった妻に頭が上がらない。
「親分、今日はまだ、あそこに易者がでてますぜぇ。近所の娘っ子の話じゃぁ、けっこう当たるって評判の易者ですよ。占ってもらっちゃあいかがですか」
「おお、そうかい。そうだな。俺達二人でいくら頭を使ったって、捕物じゃああるまいし、良い思案がでるとはおもえねえからな」
「そうですよ、思案どころか、屁もでねぇ」
「どうしておまえはそう、下品なんだ。屁なんていうねぇ。おならと言え」
 どちらも、負けず劣らず下品である。
「よ、易者の先生よぉ。ちょっくら、占って欲しいんだがね」
「おやおや、銭亀の親分さん」
「おや、俺のこと失点のかい」
「そりやあもう、なんてったて、銭形平次のモデル……」
 あわてて口を押さえた寛祭である。
「銭形ぁてなぁ、誰でぇ。俺は銭亀平次よぉ」
「はいはい、親分さん。しようちのすけですよ」
「まあ、いいか。ところで……。えへん。例えばぁ。あくまでも例えだそ、俺のことじゃあねえよ」
「はいはい、例えですね」
「ある男がいると思いねえ。良い男なんだが、なぜか、女に持てねえ」
「だれが良い男なんですかぁ、親分」
「うるせえ、だまってろ、八」
「それでな、正月の年玉に、ないかくれてやりてぇ娘がいるんだが、なにを選んだら喜んで受け取って……」
「それでもって、ちゃっかり煙草を……。イテ。親分、なんで突然殴るんですかぁ」
 まったく、この二人は見ていて飽きない。舞台に立ってコントでもsるえば、ヒット疑い無しのコンビである。
「おお、なるほどなるほど、娘さんに喜ばれるお年玉ですな。それでは占ってしんぜよう」
 筮竹を振っていて、その内の1本が飛び出し足元に落としてしまった寛祭だが、拾うときに台の下に入れておいた、サンプルの綿帽子が眼に入った。
(おっと、わすれていたわい。しかし、わてにはいらんわなぁ。お、そうだ、警官とは仲良くしとけば損はないわなぁ)
「親分さん。その娘さんは、赤い色はお好きか」
「お、さすがは占い師だな。その通り、赤が大好きだって聞いたから、今年の年玉は赤い鼻緒の。おっと、縁起でもねえ、思い出しちゃったじゃねえか」
「泣いたもんねぇ、親分」
「うるせえ、黙ってろていうのがわかんねえのかぁ、おまえは」
「まあまあ、親分さん。ちょうど良いものがここにある。これは、まだ、どこにも売られてはおらん物だが、来年には大流行すること間違いなしの綿帽子です。これを親分さんにさしあげましょう」
「え、これをくれるってか。ほ〜ぉ、なかなか綺麗じゃねえか。うん、これなら、お静ちゃんも気に入るかも知れないなぁ。八よぉ」
「そうですねぇ、親分。万が一、上手く行くと良いですねぇ」
「万が一が余計だよ」
 また、瘤が一つ増えた八だった。

       (十二)

 年が明けて文化六年となった。
 おだやかな暖かい正月だったが、昨夜は、このところ続いていた火付け盗賊の警備のため、徹夜で夜回りをしていた平次と八だったから、明け六つに長屋に帰ると、そのまま朝食も食べずにせんべい布団にもぐりこみ、目が覚めたのは昼を過ぎていた。
「親分、もう九つ過ぎですぜ」
 先に目が覚めたのは良いが、布団の中に、亀のようにもぐりこんだままのちゃっかり八が、実は腹をすかせ親分の銭亀平次に声を掛けた。
「おう、そんな頃合だな。おい八、飯を作れ」
「え、親分。起きていなすったんですか。人が悪いや。俺が飯を炊くんですかぁ」
「なに言ってやがんでぇ。今日は飯炊きのばあさんは正月で休みじゃねえか。飯屋も休み、おめえじゃあなくって誰が飯を炊くんだ」
「そんなこと言ったって、あっしに飯は炊けませんよ」
「しょうのねえやつだなぁ。捕物の役にたてねえんだったら、せめて飯の役くらいたちやがれ」
「そんなむちゃなこと言っていて、いいんですか、今日はお絹ちゃんに真っ先にお年玉渡す日でしょうが」
 とつぜん、がばっと布団を跳ね飛ばして平次は起き上がった。
「おっと、忘れてた。なんてったって、器量良しのお絹ちゃんだ。年玉を持って行こうとする男は多いはずだ。真っ先に俺が行って渡し、後の野郎は睨みを利かせて追い返さなくっちゃならねぇや」
 去年は渡すには渡したものの、真冬に夏物の下駄を渡し、あきれたお絹に突っ返された。それだけならよいとして、他の男からは受取ったお絹は、商売物とはいえ煙草を少なくとも十はお年玉の送り主に返礼として返している。そんな煙草をこれ見よがしに平次に見せびらかした町内の若旦那もいて、平次は悔し涙を流したのだ。去年の悔しい思い出が湧いてきた平次である。
「おう、八、起きろ。今からお絹んところや行くぜ」
「親分、おれは腹へったぁ」
「うるせえなぁ。大家のばあさんの所へ行って握り飯でも貰って来い」
 これまでも、通いの飯炊きが帰った後など、しばしば大家のところで飯を食わせてもらっている平次主従であった。大家も、駆け出しとは言っても、お上の御用を預かる平次だからと、なにかと無理は利いていくれていた大家だった。
「でもねぇ、親分。こないだ握り飯を頼んだとき、ばあさんに言われてるんですよぉ」
「なにを言われたんでぇ」
「こう度々では、米だって昨今安くは無いって。たまには、飯代くらい、置いて行けって、そりや怖い顔で睨まれたんですから」
「しかたがねえなぁ。おい、そこの財布を取ってくれ」
 帰宅して脱ぎ捨てた衣服の脇に放りだしてあった財布から、1朱銀を1個つまみ出し、八に渡して大家のところに走らせた。
「おやぶん。大家のばあさんはげんきんだねぇ。1朱渡すとにこにこして、味噌汁まで作ってくれたよ」
 八は、大ぶりの握り飯を六個と、鍋に入った長ねぎをぶつ切りにして味噌汁に入れた汁を持って帰って来た。
「お、根深汁かぁ。こいつぁ、体が温まるぜ」
 少し濃い目に出汁を取り、太目の長ねぎを1センチほどに切って、味噌仕立てでさっと煮た根深汁は握り飯には実に良く合う。身体も温まり、冬には格好の汁である。
 握り飯と汁で、人心地ついた平次と八は、さすがに正月とあって、暮れの内に手札を貰っている同心の明智五郎から、歳暮として貰っていた新しい着物を着込んだ。
「おやぶん。新しい着物はいいですね。正月がきたってきがしやすぜ」
「そうやなぁ。男前が上がるってもんだ。え、どうでぇ。このなりで表を歩きゃぁ。娘が振り向くってことだ」
「おやぶん、そりやぁ、振り向きますよ。しつけ糸が付いたままだ。娘たちが見たら、大笑いすること受け居合ですよ」
「うるせぇ」
 文化六年の1個目の瘤が、八の頭にできた。

          (十三)

 新年の祝儀にと、常廻同心明智五郎からもたった新しい着物を着込んだ平次と八は、まるでそれで男前が数段上がったと勘違いしながら、目指す煙草屋へと向かった。 「ねえ、親分、あれは黒門の呉服屋の次男ぼうの伊平ですよ。お絹ちゃんにお年玉渡していますよ」
「なに、あのよろう、俺のお絹ちゃんに色目を使いやがるとはふてえ野郎だ」
「しよっぴきますか」
「ばかやろう、年玉を渡してるってだけでしょっぴけるわけねえだろうが」
 口ではいくらでも偉そうなことを言える平次だが、お絹の前ではとたんにシャイになる。
「え、お・お絹さん」
「あら、平次親分。おめでとうございます」
「お、お、おめでとう」
「あら、新しい着物ねぇ、いい柄だわ、すっきりとしていて、平次さんにお似合いよ」
「え、え、そ、のう」
 悪人を前には、これでけっこう腕の良い岡引の平次なのだが、お絹の前では形無しである。
「親分、早くお年玉を出しねえ」
「お、おお、すおだな。お、お絹さん」
「なによ、お絹さんなんてぇ、平次さんらしくもないわねぇ」
「こ、これなんだが、お、お年玉ぁ」
「あら、また、赤い鼻緒の下駄かしら」
「お、言われてやがらぁ」
「ばかやろう、黙ってろ」
 実は、お絹も平次を憎からず思っていることを知っていた八だった。去年、平次の年玉を袖にしたのも、平次を嫌ってのことではなかったのだ。まだ歳も若かったこともあるし、お絹の母親が身体を壊し、看病も必要だった。ちょっと待っててね。それが証拠に、去年お絹は煙草を数人の若旦那たちにお返しをしてはいるが、八が見ても、どれもがいわゆる「義理返し」本命などなかったのだ。そんな気持ちを八は解ってたいた。解っていて、平次をからかっている。
「親分、早くだしねぇ」
「わ、わかってるよ。お、お絹、年玉だあ。とっときねぇ」
「ぶっきらぼうな渡しからねぇ。なんなの、これ」
「木曽屋がなぁ、発売りに売り出した綿帽子よ。正月とはいっても、まだまだ、さぶいしなぁ。外出には重宝すらぁ。使ってくれよ」
「へぇ、木曽屋さんが売り出したのぉ。あら、綺麗な色ねぇ」
「そうよぉ、被ってみねぇ」
「こうするのぉ。あ、暖かい」
 元々が美形のお絹である。薄紅色の柔らかい絹地に、極上の綿を入れ、ショールのように作られた綿帽子を被ったお絹は美しかった。
「ほ〜ぉ。親分、いいですねぇ。お絹ちゃんがまた一段ばっぴんになったぁ」
「うん、うん。思った通りだ。お絹ちゃん、良く似合うよ」
「ありがとう、平次さん。大切にするわ」
 お絹は、本当に気に入ったようだ。
「親分。良かったですねぇ。これで、煙草は頂ですね」
「おう、そうなりゃあいいんだがな。明智の旦那からも、早く身を固めろと言われているしな。今年こそはなんとかしなけりゃなぁ」
「そうなれば、長屋住まいってわけにもゆきませんよ」
「わかったっらぁ。銭亀なんて陰口利かれても、だまって我慢してるのはそのためだぁな」
 母子家庭の極貧で育った平次だった。明智五郎から手札を貰っていた先代の親分が、子供が無かったこともあり、平次の頭の良さと動きの軽さを見込んで引取り、手先としたのは、もう20年も前のことだ。養子同然だったから、そこそこの娘を嫁にもらい、跡目を継ぐとだれしも思っていたのだが、妻に先立たれ、1年も経たないうちに、茶屋の女にほれ込んだ先代は、女を後妻したのを機会に、家屋敷全てを売り払って隠居した。平次に残されたのは岡引としての跡目、手札だけだったのだ。無一文同然に放り出された平次は、江戸でもただ一人の、貧乏長屋住まいの岡引だったのだ。

          (十四)

「あら、お絹ちゃん。綺麗なかぶり物ねぇ」
「そうでしょう。暖かいし、柔らかくて軽くて、とてもいいわよ」
 平次からのプレゼントを気に入ったお絹は、外出には必ず綿防止をかぶって出た。美人のお絹が身に付けているのだから、嫌でも目立つ。お絹は動く広告塔だった。
「番頭さん。売れているようですね」
「はい、旦那様。売り出した当日はまったく売れませんでしたが、二日目の午後から、名指しで買いに来る娘さんが増えています。なぜなんでしょうかね」
「私にもわかりませんね。でも、嬉しいことですよ。これが全てさばければ、百両の借金はとにかく返せますからね」
 店の奥、主人の部屋で話をしている二人だ。主の言葉に、番頭がうなずいたちょうどその時だった、店から、手代の幸吉が走って主人の部屋に入ってきた。
「番頭さん、大変です。綿帽子がみんな売れてしまいました。もう終わりだとお客さんに申し上げたのですが、納得してくれません。何日でも待つから売ってくれと、それはもう、たいへんな勢いです」
「え、そ、そんなに売れているのかい」
「私たちでは断り切れません。番頭さん、旦那様、お店の方に来ていただけないでしょうか」
 お絹が、その友達に紹介する。湯島小町の筆頭と噂されるお絹の友達だから、いずれも美形である。そんな友達が綿帽子をかぶり、二人・三人と連れ立って歩くのだから目立つ。住んでいる場所が湯島天神下。江戸でももっとも人気のある行楽地である。時は正月。若者が集まる。今で言ったら、新宿か渋谷か青山通り。瞬く間に、綿帽子は江戸のヒット商品になっていたのだ。
 手代にうながされて店に出た主人の四郎兵衛も天才クラスの商人である。予約してでも買いたいと押し寄せる娘たちの目を、本物と判断するのに時間はかからなかった。
「番頭さん。これは本物ですよ。あの娘さんの目つきをご覧。たかが一時の気まぐれなんかじゃありませんね。この綿帽子、易者さんの言われた通り、いくらでも売れますよ」
「易者さんですか」
「番頭さんには言わなかったが、あの綿帽子、私の思案じゃあないのだよ。私が思案に困っていた時、神頼みと店の前にでている、体の大きな易者さんに見てもらった。あの綿帽子は、易者さんから勧められたんだよ。私も始めは疑心暗鬼だったが、ここは、賭けと思って造らせた。それが当たった……」
「易者ですかぁ」
「番頭さん。正月だなんて言ってられません。集められるだけの生地と綿、お針子を総動員して作れるだけ綿帽子を作らせてなさい。四郎兵衛、一生一回の賭け。命を張ってみましょう」
「わかりました。なにか、血が沸く、そんな気がします。精一杯がんばらせてもらいます」
 借金返済のためにと、取っておいたお金まで、全て持ち出して番頭は走り回った。それもあっと言う間に売れた。他の店は、販売はしていても、仕入はしていない。ましてや生産などまったく考えてもいない時期だけに、ほぼ半月の間、この綿帽子は木曽屋の専売に近い状態で売れに売れた。その後、他の店も真似て売り出したのだが、その頃には、百両の返済に頭を悩ませていたなど嘘のように、木曽屋の土蔵には、千両箱が積上げられていた。

          (十五)

 さて、今日は15日、平次親分が待ちに待った情人節である。平次は、朝からそわそわと落ち着かない。昨年は突っ返されたお年玉だったが、今年は受け取ってもらっただけではなく、どうやらお絹も気に入ったらしく、外出しているところを見かける時には必ず使っていた。
「親分、だいじょうぶですよ、今年はぁ。お絹ちゃんもあんなに気に入ってるんだから」
「い、いや。安心しちゃぁならねえ。乙女心と何とかって言うじゃあねえか」
「そうかなぁ。そもそも、お絹ちゃんも、親分のこと嫌いじゃあないってわっしは思ってるんですけどね。去年は、ちょっと変だったんじゃあないですか。返し方だってわざとらしかったし」
「そうならいいんだがなぁ」
 いつもなら、自分の言い分に反対するような言い方をされたら、怒鳴り返している平次だが、こればっかりは自信が無いのか、元気が無い。朝から狭い部屋の中を行ったり来たりしている。手持ち無沙汰をまぎらすつもりか、煙草ばかりぷかぷか吸っていたので、指はヤニで茶色くなっていいたし、部屋中に立ちこめた煙で視界も悪くなるほどだ。
「親分、心配していたってしかたがないですよ。丁とでるか半とですか、二つに一つなんですからね」
「てめえのことじゃあないもんだから、気楽なもんだなぁ八。まあ、気楽なのはいつものことだがな」
 いかに、情人節だからといって、娘の方からプレゼントを持ってきてはくれない。会いに行かなければ結果はでないのだが、なかなか長屋から出る勇気のわかない平次だった。
「親分、行きましょうよ。いじいじしてるなんて親分らしくないですよ」
「そうだな、ここに座っててもしかたが無いしなぁ。行ってみるか」
「そうでなくっちゃ」
 ようやく腰を上げた平次主従である。お絹の煙草屋まではほんの近く、あっという間に店の前に着いてしまった。
「親分、いますぜ、かわいらしく店先に座ってますよ」
「わかってらぁ。せくねぇ」
 心なしか顔色が青くなっている平次だ。礫投げの名人、売り出し中の敏腕岡引とはとても見えない今日の平次である。遠めにお絹を見てはいるのだが、店の前に行く勇気がでない。もう半刻(約1時間)ほども、店の前を行ったり来たりしている。
「親分たらいいかげんに覚悟を決めたらどうですか」
 痺れを切らした八に言われ、おずおずと店の前に進んだ平次を、お絹は目ざとく認めてお絹の方から声を掛けた。
「あら、平次さん。いらっしゃい」
「お、元気かい」
「なによ、その言い方、いつもの平次さんらしくもないわねぇ。お腹でも痛いの」
「腹なんて痛かあねえよ」
「そうならいいんだけど。あ、そうそう、平次さん。これ、お年玉のお返しよ」
 平次が普段吸っている煙草と比べたら、はるかに値の張る、高価な国分の刻み煙草の包みをお絹は差し出した。
「お、親分、やりましたねぇ。親分、どうしたんですか」
 あまりの嬉しさに、呆然として声も出ない平次だった。

          (十六)

「まあま、存分にやってくれ」
 ここは、上野不忍池の傍、鰻屋「伊豆栄」である。
「寛祭さん。おめえさんの占いは当たるねぇ。今日はお礼だ。好きなだけ飲んで食ってくれ」
 けちで通っている平次親分だったが、お絹から煙草をもらったのがよほど嬉しかったのだろう。近隣では最も高級な料理屋に寛祭を招待したのだ。
「親分さん。よかったねぇ。お目当ての娘さんとは上手く行ったようじゃなぁ」
「そうりゃあもう、上手くいったなんてもんじゃあありやせんや。店でも最高の、極上の国分をお返しにってくれたんですよ」
「ほーぉ。それは、本命ということじゃな」
「本命ですか」
「そうよ。お年玉をもらた相手には、とりあえずみんなにお返しはするもんやは。でもね、まあ、お義理のお返しなら普通の商品だわなぁ。それが、最上級のとなると、これはもう、『あんさんが好きや』、そういうことでっしゃろ」
「そうですかね。易者の先生にそういってもらえると、なんだか、そんな気になってきたぜ。うれしいねぇ。ささ、どんどん食ってくれ。先生」
「どんどんと言ったって親分さん。もう、重箱の中身はみんな食べちゃいましたわ」
 口では、どんどん食べてくれと言っている平次だったが、実は、今で言うランチサービスのお重を注文しただけである。大食漢の寛祭なのだから、あっという間に重箱は空になってしまっていた。
 ちなみにこの「伊豆栄」は、それまでは、屋台で売っていた鰻を、蒸し焼きにして上品な味の料理に完成させた名店である。店構えも立派だったから、値段も高い。本来ならば、お礼に一席をなると、小部屋でというところだったが、それには金がかかる、安直にと考え、入れ込みのランチサービスでごまかそうとしていたのだ。しかも、普段だったら金魚の糞みたいにいっしょにいる八がいない。
「易者の寛祭先生に、お礼として鰻をごちろそうしようと思うんだが……」
「え、鰻ですか。うれしいなぁ。わし、もう何年も鰻食べてませんでしたぁ」
「ばかよろう、おまえは長屋で茶漬けでも食ってろ」
 というよなわけで、八は長屋で留守番となったのだ。
「先生、食べるの早いですね」
「特にはやかあおへん。上品にご飯を盛って、その上に一切れだけの鰻、一口で終わりですよ、だれでも」
 さすがに、お礼としてはちょっとけちったかなと、平次も反省をしていると、りっぱな身なりの、大店の旦那風の男が声をかけてきた。
「おや、占いの先生じゃあありませんか。それに、平次親分もごいっしょで」
 木曽屋四郎兵衛だった。
「もうお食事は終わりですか。私は今きたところです。残念ですね、まだならばぜひご一緒したかったのですが」
「しめた」
 木曽屋の誘いである、奢ってくれるにちがいな。そこは計算の速い平次である。
「いえ、旦那。昼飯前に、軽く飲んでたところでさあ」
 おや、と思った寛祭だが、すぐに平次の考えていることに気が付いた。寛祭も、奢ってもらうのは大好きな男だった。
「ええ、木曽屋の旦那。これから、鰻にしようと親分と話し合っていたろころですよ」
「ああそうですか、これは良かった。先生にはお礼をしなければと、常々思っていたのですが、商いが忙しくってひまがありませんでした。それなら、今日はぱっと飲んで楽しみましょう」
 話はとんとんと進み、奥のりっぱな部屋に案内された寛祭と平次親分だった。
「今日はなんてついている日なんだろう。幸せが団体できやがった」
「え、なんかいいましたかいな、親分」
「こっちのことでさあ、さあ、寛祭さん。どんどん食べましょう」
 まるで、自分が招いたように言う平次である。しっかりしているというか、ちゃっかりとしているというか、今日ばかりは、ちゃっかり八のお株を奪っている平次だった。
 寛祭が、3人前の蒲焼を食べ終えたちょうどそのときだった。店先で騒がしい物音がすると、箸を動かす手を止めた平次の前に、八が飛び出してきた。
「お、親分、たいへんだぁ。人が殺されてる〜ぅ」

           (十七)

 あわただしく飛び込んできた八が、伝えた事件のあらましはこうだった。
 久々に鰻に有りつけると、喜んだ八だったが、読みが浅かった。なにしろケチに関しては筋金入りの銭亀の親分である。旦那衆からの奢りの席ならばいざ知らず、自分が金を出すとなると、子分の八など連れてくるはずがない。ましては、高級料理屋の伊豆栄である。期待した八が馬鹿だったのだが、そこはやはり面白くない。ふて腐れて伊豆栄の前の道を西に歩き、左に折れて湯島天神の男坂下まで行くと、木曽屋の女中おみよの姿を見かけた。
 小柄な身体ながら、若い娘らしくふくよかな体つき、下膨れのぽっちゃりとした色白のおみよには、少なからぬ関心をいだいていた八だったから、げん直しにと、しるこ屋にでも誘おうと声をかけた。
「よぉ、おみよちゃんじゃあねえか。ひまかい、しるこでも奢ってやろうかぁ」
「あ、八さん。あ、あれ……」
 何かを怖がっているのか、身体を堅くして、両手を胸のところにきつく押し付けていたおみよが、恐る恐る右手を少しずつ前に出し何かをさしている。
「な、なんだぁ」
 おみよが指差した方に数歩進んだ八は、それが、倒れている男であることに気がついた。
「なんでぇ、昼真っから酔っ払ぇかぁ。おい、起きろよ」
 言い終わらないうちに、八には、男の頭から血が滲み出しているのが見えた。
「なに、こ、こいつは権八じゃあねえか。い、いけねえやぁ。し、死んでるぅ」
 というようなわけで、おみよをそこに残し、伊豆栄に飛び込んできたのだ。
 行きがかりじょう、寛祭と、第一発見者が自分の店の女中だと聞いた木曽屋四郎兵衛も、平次とともに現場に駆けつけることになった。
「おう、おみよ。どういうこったい」
「お、親分さん。私にはなにがなんだかちっとも。ここまで歩いてきたら、権八さんが倒れていたんです。それだけです、私はなにも見ていません」
 若い娘でもあるし、死体を見て動転していることは理解できたが、どうも様子が変だと、できは良くはなくても、それでも一応は、警察官のはしくれである寛祭は感じ取った。

            (十八)

 八を、常廻同心の明智を呼びに走らせ到着を待つ間に、平次と寛祭は死体を調べた。正式な検死は、同心の役割だが、それは表向きのこと、実際の捜査にあたる岡引が死因や遺留品などの確認をしなければならないことは言うまでも無い。
 死体のキズは1箇所だけだった。致命傷になった石による打痕だけである。
 殺害された死体には良く見られる、驚いたような表情、恐れを感じたような表情はまったく認められなかった。ほんの今まで生きていた、自分自身、死んだことも知らないのではないかと思えるほど、普通の表情である。おそらく、本人が気がつかないうちに1撃で殺されたのだろうと推察される。
「親分、これは、後ろからそっと近づいて、一撃で殺しているのう」
「寛祭さんもそうお思いやすか。わしもそう思います。これほどの大男の権八ですから、襲ってくる相手を認めていたら、こんなに易々とは殺されねぇでしょ」
「その通りだよ、親分。さすがだねぇ」
「なぁに、おれは本職ですからね。それにしても、寛祭さんも良くわかりなさる。まさか、易にでているってわけでもねえんでしょう」
「易じゃあないよ。まあね、私の親が、探索関係だったからね」
 と、あいまいにごまかす寛祭だった。
 念のためにと、うつぶせに倒れていた権八の死体を仰向けにし、懐を探ってみた平次は、赤い小さな物をつまみ出した。
「なんですかねぇ、権八の持ち物とも思えませんね」
「どれどれ」
 寛祭も覗き込む。
「お、これは、におい袋だよ、親分」
「におい袋ですか」
「江戸者はめったに使わないが、関西では普通の娘も持ち歩く良い匂いのする香料を入れた袋だよ。汗のにおいや、わきがのにおいなどを消すためだね」
「ということは、女物ですよね。なんで権八がこんな物を持っていたんでしょうね」
 平次が不思議がっている間に、寛祭は死体の傍に、鳩の羽が落ちているのを見つけた。
「鳩の羽根だが、崖の上の境内ならばいざ知らず、こんなところに羽根が落ちている。なぜなのだろうか」
 考え込む寛祭である。
「よ、平次、ごくろう」
 南町奉行所常廻同心、明智五郎が、小者を連れ現れた。巻き羽織に銀杏返しの髷姿、一目で判る同心スタイルである。
「旦那、殺されていたのは、このあたりでは嫌われ者の、相撲取りあがりの半端やくざ、権八でした。頭を石で一撃で殺されていやす」
「おう、死んだのは権八か、知っている。どうしようもない悪だった男だな。死んだ方が世のため人のため、そんな男だ。まあ、適当に調べておけ。無理はするなよ」
「へい、解りやした」
 一言いうと明智は、さっさと帰ってしまった。検死などまったくしない。
「親分。明智さんはろくに調べなかったねぇ」
「ああ、殺されたり、盗みに入られた方が悪人や良からぬ連中の場合は、いつもあれだよ。『無理するな』の意味は、調べて下手人がよんどころない事情のすえの犯行だったりしたら、適当にごまかして無理に捕らえるな。そういう意味なんですよ」
「犯人が判っていても、事情があれば、見てみない振りをしろ。そういう意味だね、親分」
「その通り、しかも、被害者側に問題があれば、むしろ、それをネタに多少ならば金をせびっても大目に見る。そんな旦那なんですよ」
「なんと。面白い役人もあったものだねぇ」
「まあ、今回は被害者が権八、役目柄、真相は調べなくっちゃならねえが、うまく丸めて、済みとしたいところですが……」
「なにか問題でも」
 平次は腕組みをして考え込んでいる。
「いえね、もみ消すのはいいんですがね。なにしろ死人がでているんですぜ、屁理屈でもなんでも、理屈が通らなくっちゃ、方がつかない。そこんところが厄介ですね。下手人を上げる方がよっぽど楽ですよ、寛祭さん」
「そんなものかねぇ」
 罪を憎んで人を憎まず。犯罪が起きたら、その背後にどんな事情があっても、調べ、犯人を検挙する。その後、その罪を裁くのは裁判所の仕事。警察官は、そこまでは立ち入らないという、現代風の考え方をする寛祭だったから、捜査から処罰まで、すべてを含めて考えている明智同心や平次親分の感覚には、ちょっと驚いた。
「まあ、これが、江戸時代式なのだろう」
 むりやり納得してしまった寛祭だった。環境には慣れやすい性格なのだ。

              (十九)

 行き掛かり上、平次や寛祭と共に殺人現場に行った木曽屋は、事情聴取の終わった女中のおみよを伴って店に帰ってきた。
「おみよ、とんでもない現場に出くわしてしまったね」
「はい旦那様、びっくりしました」
「ところで、なんであんなところに行ったのだ」
「え、そ、それは……」
「まあいい、恐ろしいものを見てしまって驚いただろぅ。今日はもういいから、早く寝てしまいなさい」
 おみよの様子が、あまりにも打ちしおれているので、気の良い主人の四郎兵衛だったから、妻にもそのことを話し、まだ暮れて間もない五つにもなっていない時刻だったが、おみよを休ませることにした。
「本当にまあ、今日はむちゃくちゃな日だったねぇ」
 独り言を言いながら店の方に歩いていった四郎兵衛は、店の柱の影に、手代の正吉が立っているのに気がついた。
 正吉が、最近まで木曽屋の女中をしていたおかきを好きだったことは知っていた。しかし、おかきの方は正吉を特別な相手とは思っていなかったらしく、親戚から良い縁談が舞い込むと、いそいそと店に暇をもらい、実家に帰ってしまった。
 正吉は失恋をしたのだと、主人の四郎兵衛も解ってはいたが、それにしても、いま見るその落ち込み方には異常に感じた。
「そこにいるのは正吉かい。どうした、そんなに暗い顔をして。まあ、おかきのことはあきらめなさい。縁がなかったのだからね。今に、良い相手も見つかる。おまえが良ければ、私が見つけてきてやってもいい」
 思わず、そんな声を掛けなければならない気にさせるほど、一人たたずむ正吉には、暗い雰囲気がただよっていたのだ。
 正吉は今日、おかきへの思いを断ち切るため、なんどか二人で行った湯島天神の境内に行った。そこで、けじめをつけようと思っていたのだが、いざ行ってみると、思い出がふつふつと湧いてきてかえって悲しみが湧いてきた。しかし、ひとしきり悲しみに浸った時間が過ぎてしまうと、次には、尻軽なおかきが憎くなってきたのだ。
「なんでぇ。さんざんその気にさせておきながら、玉の輿の話が持ち上がると、わたしのことなどすっかりと忘れ、うきうきしていた。そんな女だったのだ」  境内のはずれは崖になっていて、木の柵が転落の防止に作られていた。その柵のすぐ傍には、石を積んだ塚のような物がある。将来を誓う男女が、二人で石を拾い、そこに積む。1年経って、その石が転げ落ちなければ、願いはかなうとの俗信があった。
 正吉とおかきも、そんな石を積んでいる。
 正吉は、二人で積んだ石を、その塚から取り除こうと、探しているうちに、高く積上げ過ぎた石の山を一部崩してしまった。頂上部に積んであった大き目の石が積上げた石の山から転げ落ち、ちょうど木の柵にぶつかり、崖から外に落ちてしまったのだ。
 驚いた正吉が、柵から身を乗り出し、崖の下を覗いたとき、一人の若い娘と目が合った。
 その娘はおみよだった。
 おみよに声を掛けようとしたとき、おみよの前に一人の男が倒れているのが目に入った。
 石の山から転げ落ちた石は、その男のそばに落ちている。
 正吉は、自分が落とした石が、たまたま下にいた男に当たり、殺してしまったことに気がついた。しかも、その現場を、同じ木曽屋に働くおみよに見られてしまったのだ。
 もし、だれも見ていなかったとしたら、しらばっくれることもできただろう。しかし、目撃者がいて、その目撃者が自分のことを知っている。これはもう、逃げられない。過失では合っても、人一人殺したのだ。正吉の目の前は真っ暗になっていたのだ。

            (二十)

 正吉は、おみよによって今で言うところの過失致死の犯人として訴人されると思って心を暗くしていたのだが、一方、おみよの方も恐れおののいていた。
 おみよは、女中として木曽屋に奉公はしていても、その実家は木曽屋と同じ呉服問屋であった。当時の一般的な考え方ならば、問屋のお嬢様が女中奉公などしないのだが、おみよの父親は、呉服の荷物を持ち、得意先を廻る店を持たない担ぎの商いから、今の店を持つまでに出世をした男だった。母親も、内職をしながらその夫を支えた。今はそれなりの店を持つまでにはなったが、娘を、ただの大店のお嬢様には育てたくなかったのだ。そこで、異例ではあるが、同業でもあり、人格者としても知られた木曽屋四郎兵衛のところに、行儀見習をかねて奉公をさせていたのだ。
 そんなおみよのバックグランドを知る権八とその仲間に、おみよは騙されたのだ。
 権八の仲間だった役者崩れの富蔵というやさ男に、言葉巧みに言い寄られ、出会い茶屋に連れ込まれたおみよは、権八によって、無理やりに娘から女にされていたのだ。しかも、そのときに持っていたおみよのにおい袋を奪われてしまっていた。
 1年の約束の奉公を終えたおみよは、実家に帰り、しかるべき同業者から、婿を迎えて店を継ぐことになっている。汚されたことが両親に知られたら、しかも、軽率にも自分の方からでかけていっての災難だったのだからと、おみよの心は痛んでいた。
 そんな今日、おみよは、権八からの手紙を受け取った。
 手紙には、証拠の品物を持っている。世間に知らせれたくなければ、百両の金と引き換えに返してやると書かれていた。
 両親に相談すれば、娘の醜聞を消すために、百両くらいの金ならば、すぐに出してくれるとは思ったおみよだが、それで全てが済むとは思えなかった。多少気の強いところもあるおみよだったから、とりあえず、話だけをしてみようと、出向いた湯島天神男坂下だった。
「なにがなんだかわからない。権八は死んでくれたけど、におい袋は取り返せなかった。あの石は、正吉さんが私が権八から脅かされているのを見て落としてくれたんだわ。でも、そうだとしたら、正吉さんは私と権八のことをなぜ知っているんだろう」
 おみよは、権八と激しく言い争っていたときに、石が落ちてきて権八に当たったことを、偶然とは思っていなかった。言い争いの声を偶然に聴いたか、あるいは、おみよが権八に呼び出されたことをなぜか正吉が知り、崖の上から様子をうかがっていたのではないかと思っているのだ。思い込みである。
 いずれにしても、権八の死を、事故とはおみよは思っていない。正吉が意識して石を投げて殺した、殺人事件だと思っている。そして、自分も共犯になると恐れているのだった。

            (二十一)

 権八の死体は番屋に運び込まれた。
 あらためて裸にしてキズを調べた平次と寛祭だったが、やはりキズは頭部の打撃痕だけだった。
「あの重い石を持ってそっと後ろから近づいて殴ったにちげえねえ。女にはできねえこったから、おみよはやはり下手人じゃあねえな。男、それもかなりの大男だ」
 平次はそう確信した。しかし、寛祭はその、あまりにも見事な一撃痕が不思議だった。
「後ろから近づいて殴ったのなら、後頭部にキズがあるはずや。しかし、キズは頭頂部。権八はしゃがんでいたんやろうか」
 腕組みをしながら、寛祭らしくもなく、真面目な顔つきで考え込んでいる。
 そこへ、おみよの関与を心配した木曽屋が現れた。
「親分さん。言われた通り、おみよには女房が付き添っていて監視させていますが、私にはおみよが人殺しをするなんてとても思えません。お調べの方はどうなっているのでしょう」
「木曽屋の旦那、ご心配にはおよびやせんや。どう見たって、おみよのような小娘にできる仕事じゃあねえ。おみよは無関係ですぜ。監視もいりやせんや」 「ありがとうございます、親分さん。ほっとしました」
 心底、安心した顔になった四郎兵衛だったが、ふと顔が暗くなった。正吉の異様な暗い様子を思い出したのだ。
 そんな四郎兵衛の様子に寛祭が気がついた。
「木曽屋さん、おみよさんは無関係と解っていますよ、まだなにか心配ごとでも」
 声を掛けた。
「おや、寛祭さん。いらしたのですか」
 大男の寛祭である。それでなくとも狭い番屋を塞ぐように立っていたのだが、それに気がつかないほど、四郎兵衛は動転していたのだ。
 寛祭の顔を見て四郎兵衛は正吉のことを寛祭に相談することにした。
「寛祭さん、ちょっとお話があるのですが、聴いていただけませんでしょうか」
「木曽屋さんの頼みごとなら、断ることなんかできませんよ。なんでもおっしゃってください」
 四郎兵衛は、寛祭を番屋の外、柳の木の下に導いた。
「実は、店の手代の正吉のことなのですが。近頃、好いていた女が、国に帰って嫁いでしまったことから、落ち込んでいるのはわかるのですが、その様子があまりにも暗くて……。気鬱の病にでも落ち込んでいるのではないかと心配しています。寛祭さん、占いでなんとか、正吉の気持ちを元通りにできないものでしょうか」
「わかりました、木曽屋さん。占ってもみますが、まずは、正吉さんとじっくりと話をすることが大切ですね。話すだけでも、気分はかなり晴れるものです。お店のご主人には話しづらくても、私には話せるでしょうからね」
「そうして頂けるとありがたい。ぜひ、お願いいたします。お礼はできるだけさせていただきますから」
「お礼などけっこうですよ、木曽屋さん。まあ、その代わりと言ってはなんですが、伊豆栄での宴会は途中で終わってしまっていますのでね、宴会のやり直しでもしていただければそれで十分」
 なんとも、おいやしの寛祭である。
「そんなことで良ければ、なんどでも宴会をさせて頂きますよ」
 この言葉を聴いたときの、にやけた寛祭の顔を、少し離れた桜の木の陰から、着流しの侍姿、時間管理省長官、遠山平蔵が見ていた。
「なんたるだらしのない顔をしているんだ、あいつは」
 にがにがしく寛祭を睨んでいた。

            (二十二)

「正吉さん、まあ、気楽に入ってくださいね」
 ここは、同朋町の寛祭の住む家である。長屋ではなく、小さいながら庭付き二階建の家である。寛祭はここで一人暮らしをしている。
 木曽屋四郎兵衛から、正吉が塞ぎこんでいる理由を聞き、できれば悩みを解決してやって欲しいと頼まれた寛祭は、正吉を呼び出し、自分の家へと伴ってきた。主人や同僚のいる店の中では、話しずらいだろうと、寛祭としては、気の利いたことをしたのだ。ところが……。
 入ってくれといわれた正吉だったが、戸を開けて中を覗きこんで驚いた。ちいさなたたきから板敷きのかまちがあり、二畳ほどのスペースの玄関と、奥に続く六畳の部屋だが、土が露出したたたきから板敷き、玄関の畳の上まで、紙切れやら汚れた下着やら、まったく無造作に散らばってる。まるで、ゴミが部屋に降って積もったようになっているのだ。寛祭のずぼらな性格が現れている。
 驚く正吉の様子に気がついた寛祭は、あわてて降り積もっているゴミをかき分け、人一人が通れるだけの通路を作った。
 奥の六畳は、寝室に使っているのだが、部屋の半分は玄関と同じ、こちらは、食べ物の残りカスまでが降り積もっている。中には腐って異臭を放つものまであるのだから、あきれたものである。
 残りの半分には、万年床がしかれていた。
 寛祭は、その布団を二つ折りにして部屋の隅に押しやり、庭に面した戸を開けて部屋の異臭を外に逃がした。
 この様子も、遠山平蔵が庭の外から観察している。
「どうもいかんな。あいつを一人で置いておくとろくなことはない。あの部屋が原因で伝染病でも発生したら、α値が上がってしまうわい」
 α値とは、その時空に本来存在する者以外の者が原因となって、広い意味での歴史に変化を与えた場合に上昇する。この値が限界値を超えると、時空そのものが爆発し消滅すると理論は警告しているのだ。そのα値を管理するのが、時間管理省であり、遠山平蔵はその長官、寛祭は派遣された管理官だったのだ。
 ようやく、なんとか二人分のスペースを確保した寛祭は、正吉を前に座らせた。
「正吉さんが、塞ぎこんでいて心配だからと、木曽屋の旦那さんから頼まれたんでね。私なら口は堅い、ここだけの話にしておくから、困ったことがあるのなら、みんな話してしまいなさい。好いていた娘さんに振られただけで、そんなに思い悩んでいるわけではないだろう」
 やさしく話し掛けた。
 しばらくは、話そうか話すまいか、だまってうつむいていた正吉だったが、一人悩んでいただけでは、なにも解決はしないと思ったのだろう、話し出した。
「先生、間違って人を殺してしまったとしたら、それがわざとではなくても、死罪になるんでしょうか」
 商家の奉公人は、長い勤めの間に、小僧から手代、番頭と上り詰め、40歳くらいで暖簾分け、小さいながらも店を持つ。それが通り相場の職業だから、正吉もそれなりの蓄えはしているのだろうと、寛祭は考えていた。おそらく、好きになった娘に、溜めた金を渡してしまい、あげくの果て、金を持ち逃げされたような格好で国に帰られてしまった。そんな金の悩みかと思っていたのだが、突然「死罪」などと、物騒な単語が飛び出したのには、寛祭も驚いた。
「う、まぁ。事情によるだろうが、まったくの過失ならば、そう簡単に死罪にまではならないと私は思うよ」
 実際、過失の場合には、それが余ほど重大な結果を生んでいなければ、例えば、多数の死者を出すような、大事故の原因を作ったような場合以外は、悪くて島送り、軽く済めば所払い程度で済んでいる。
「ということは、例えば島送りですか」
 答える正吉の声は暗い。
 悪事の限りをつくしている常習の悪人ならばいざ知らず、正吉のような普通の市民だったら、それが軽い所払いであったとしても、彼の将来はめちゃくちゃになってしまう。一生が日陰者として暮らさなければならないのだ。
 どうも話がとんでもない方向に向いていると、狼狽している寛祭だったが、そんな風は表に現さず、
「どうも、おだやかではない話のようだが、それならばなおさら、正吉さん一人で背負い込むのでは荷が重いだろう。事と次第によっては、私の胸一つ、他言はしないから、正直に話してみなさい」
 そこまでいわれ、正吉も覚悟が決まったらしい。これまでうつむいていた顔を上げ、それが本来の正吉だったと思えるはきはきとした物言いで事情を話し始めた。
「おかきのことはあきらめていました。なにしろ、村の庄屋の跡取との縁談です。それも、盆に里帰りしたとき、見初められての話です。見ず知らずの相手に嫁ぐわけでもなし、おかきも納得ずくの縁談ですから、私などが入れる余地はないのです。でも、一緒になろうと湯島天神に願掛けした石がそのままでは、なにかと祟りもあろうかとも思い、捨てようとしたのです」
 「湯島天神」と、「石」、この二つの言葉を聞いて、寛祭の頭に先日から溜まっていたどす黒い疑惑の思いが晴れた。崖の上の石の山から、石が転げ落ちた。石で殴ったのではなく、上から落ちたから、キズが後頭部ではなく、頭頂部にあったのだ。
「正吉さん。解りましたよ。石を捨てようと石の山を触り、誤って石を崖から下に落したんだね」
「はい、さすがに先生ですね。その通りです」
「しかしまあ、めったにないこととはいえ、起こりえないことではなし、黙っていればそれで済んでしまう。そんなに悩むことはないと思うのだがねぇ」
「実は、おみよに見られてしまっているのです」
「おみよさんねぇ。確かに、あの場所にはおみよさんがいた。でもなぜ、おみよさんは、あんな場所で権八なんかと会っていたのだろうね。なにか知っているかい、正吉さん」
「いいえ、あの時は、石を探すのに夢中でした。確かに、崖下から話し声は聞こえていましたが、なにを話しているのかなんて、関心もありませんでしたから」
「そうかい、正吉さん。起こってしまったことはしかたがない。悩んでも同じさ。平次親分とは仲良くしてもらっている私だから、悪いようにはしない。今はなにも約束はできないが、心静かにして待っていなさい。それが正吉さんの運なのだからね」
「わかりました、先生。成るようにしか成りませんね。くよくよするのはよしにします」
「そうそう、それが良い。さてね、この件、おみよさんがどう思っているのか、それを確認しないと、次の手が打てませんね。一緒にお店に行くから、おみよさんを呼び出してはくれまいか」
「わかりました」
 と、二人して木曽屋に向かった。

            (二十三)

 木曽屋の裏木戸まで二人で行き、正吉だけが中に入った。寛祭はそこでしばらく待っていると、おみよが、これもまた、おずおずとした様子ででてきた。
「おみよさん。易者の寛祭です。覚えていますか」
「あ、はい、男坂下で、平次親分とご一緒だった方ですね」 「そうです。うれしいなぁ。おみよさんのように、かわいらしい娘さんに覚えていてもらって、男冥利に尽きる」
 これから大事な話をしなければならないというのに、ちょっと綺麗な娘を見ると、まるでだらしがなくなってしまうのも、数え切れないほどある寛祭の欠点の一つである。
 正吉は男だったから、自宅に呼んで話をしたが、まさか、若い娘を連れても行けず、寛祭はおみよを、上野忍ばずの池へと誘った。歩いても20分とはかからない距離である。
 繁華街の上野の、すぐその近くではあるが、さすがに、池の近くにはほとんど人の気配はなかった。平地だから、遠くには上野広小路を歩く大勢の人の姿は見えてはいるものの、話し声を他人に聞かれる恐れはない。
「おみよさん。正吉さんから聞いたのだが、石が落ち、権八の頭に当たったとき、正吉さんを崖の上に見たんだね」
「はい、見ました。そして、正吉さんには、権八と私の話を聴かれてしまったんです。もう私、お嫁に行けない」
 ここまで言って、おみよは泣き出してしまった。
 正吉はおみよの話を聞いてはいない。しかし、おみよは聴かれたと思い込み泣いている。その話がどんな話なのか、がぜん野次馬根性剥き出しになった寛祭である。なにも正吉からは聞いていないが、かまをかけた。
「まあまあ、泣かないで、おみよさん。おみよさんにも言い分はあるんだろう」
「私、ばかだったんです。富蔵さんはちょっと良い男だったし、誘われてついていったんです。それも、お茶を飲むだけ、ほんとうにそれだけだって言うから……」
「ところが、それだけではなかった」
「私は、部屋には入らなくっていいって言ったのに、風が吹いていて目にごみがはいるって富蔵さんがいうもんだから、しかたなく入ったら、富蔵さんたら厠に行きたいって言い出して。それで待っていると、突然、権八が入ってきて……」
 もうこれ以上は話せないくらいに泣きじゃくるおみよだったが、寛祭には、入ってきた権八がなにをしたのかは想像がつく。どうせ、権八のことだから、既成事実を作っておみよを傷物にし、それを黙っているとの口実で、おみよの実家をゆするつもりだったのだろうと、寛祭は思った。
「権八なんて悪い男の言うことなんか、だれも信じやしないさ。おみよさんが、知らないと言い張れば、それで終わりじゃないのかい」
「でも、におい袋を盗られてしまって、証拠の品だって……」
 恐喝事件と、過失致死、この二つが偶然に重なった事件の全貌がようやく見えた寛祭である。ただ、おみよの破廉恥な事件は、権八は死んでいるし、におい袋も平次の手にある。富蔵なんて、脅しつけておけば、なんにもしゃべりはしない。おみよは、正吉に聴かれたと思っているが、実は聴いていない。今となっては、寛祭だけが知っているのも同じだった。
「おみよさん。泣かなくてもよいよ。正吉はなにもしゃべらないさ。世間に漏れることはない。おみよさんが、嫌な経験をした、そのことだけ、忘れてしまえば、問題はすべて解決だよ」
「正吉さんは本当に話さないでしょうか」
「だいじょうぶ。私が保証するよ」
 寛祭の実態を知っている者ならば、寛祭の保証なんて、無いに等しいと思うのだろうが、見かけはりっぱな易者の身なり。大男でそれなりに貫禄もあるのだから、知らない人は信用してしまう。まあ、今回はかえってそれで良かったのだが。
 気を取り直し、泣くのをやめたおみよを、木曽屋の裏まで送り届け、寛祭は、この後始末をどうしよかと悩んだ。

           (二十四)

「わてしか、真実は知らないんやさかい、もみ消すのはかんたんやわなぁ」
 人前では、易者という職業柄、武家言葉を使っている寛祭だが、一人になると、言葉が下卑てくる。
「しかし、それではわてが歴史を変えたことになるわなぁ」
 α値が高くなってしまうのだ。
「ようやく、木曽屋の事件があんじょうおさまりかけ、値が下がってきているのに、また上がってしまうわなぁ」
 木曽屋の百両紛失事件が起こった時には、α値は、60を越えていた。最近は時空トラブルが多発していることもあり、常に20くらいの値はでているが、木曽屋の事件だけで40も値が高くなっていたのだ。それが、寛祭のアドバイスで商売が持ち直しつつある現在、40ほどまで下がっていたのだ。
「そや、最近は忙しくてαメータを見てへんだった。今は30近くになっているだろうな」
 戸棚からメータを取り出し、針を見た寛祭は驚いた。
「ひえー。なんやこりゃ。50になってるやんかぁ」
 数日前に見たときには、間違いなく40だった針の指し示す数字が、なんと、50にまで上がっている。
「べつの新しい時空事件が起こったんかいなぁ」
 しばらく考えていた寛祭だったが、ふと、彼のアイドル、林檎嬢が話していたことを思い出した。
「寛祭さんに今回持っていってもらうαメーターは最新式よ。ほら、ここにシュミレーションと書かれているボタンがあるでしょう。これでね、寛祭さんが起こそうとする行動が、α値にどんな影響がでるか解る仕組みなのよぉ」
 今、メーターを見たとき、寛祭は、自分がもみ消しをすると、α値が上がるとからと、もみ消しはしないでおこうと思っていた。そして、シュミレーションボタンを、無意識に押しながら測定していたのだ。
「もしわてが、もみ消したとしたら、値はどうなるんやろ」
 心に、もみ消すと念じながら、シュミレーションボタンを押して測定した寛祭は、現れた値を見て、また驚いた。
「な、なんやぁ。35や。15も下がっとるやんかぁ。そうか、もみ消すことが、歴史なんやぁ」
 どうしてそうなるのかは、一向に解らない寛祭だが、メーターの数値には信頼がおける。ここはなんとか、屁理屈でもこねて、もみ消さなければならないと、無い知恵を絞る寛祭である。

           (二十五)

「平次親分、解りましたよ。権八の事件。あれは殺しなんかじゃなかったんですよ」
「殺しじゃあねえってゆうんですかい、寛祭さん」
 ここは、平次が住まいする長屋である。
「ええ、親分。現場に鳩の羽根が落ちていたのを覚えていなさるかい」
「ああ、におい袋は権八の懐の中、羽根はすぐ傍に落ちていたっけねぇ」
「そう、それですよ。下手人は鳩ですよ。親分」
「下手人が鳩ですってぇ、寛祭さん」
「あれからね。湯島天神の境内に行って見たんですよ。ちょど、権八が倒れていたその真上の柵の傍に、石の山があったんですよ」
「知ってまさぁ。将来を誓った男と女が、一緒に積むと添い遂げられるって、迷信ですよ」
「まあ、迷信であるかないかはは別として、山はある。これは確かなこと。そしてね、親分、最近、崩れた後があったんだよ」
「崩れた後ですけぇ」
「そう。だれだかは知らないが、石を中途半端に置いた二人連れがいたんだろう。不安定になっていた。そこに、鳩が飛んできたんだと思いなさい」
「鳩がねぇ」
「ここは上野さ、鳩の餌はいくらでもある。それを食べ、丸々と太った猫みたいな鳩がいたんだよ、きっと」
「太った鳩ねぇ」
「その鳩が、石の上にとまったんだね」
「とまった」
「するとね、もともと不安定な石組だったから、石が崩れて落ちたんだな。ころころころとね」
「ころころころ、ねぇ」
「それが、運悪く、権八の頭に当たった。親分も見なさっただろう。権八のキズは頭頂部だった。大男の権八をだね。そっと後ろから近づいてだね。殴ったとしたら、キズは後ろの方につくだろう。しかし、あのキズは違った。殴られたキズじゃあない。落ちた石でできたキズだよ」
「なるほど、確かにあのキズは並みの男が後ろから殴ったんじゃ、できねぇキズだ」
「その通り。頭がいいねぇ、親分。犯人は鳩、証拠は落ちていた羽根だよ」
 と、必死で屁理屈を並べている寛祭の後ろから声が聞こえた。
「なるほど、名推理だよ。寛祭さん」
 振り返ると、常廻同心の明智五郎が立っていた。
「平次、寛祭さんにお礼を言いねぇ。犯人は鳩、それに違ぇねえ。そのように処理しな」
 と言うなり、くるっと後ろを向いて明智は帰っていってしまった。
 実は、正吉が誤って石を落としたところを、明智同心は目撃していたのだ。寛祭は、ことの真相を知っているのは自分一人と思っていたのだが、明智は初めから知っていた。知っていて、上手に事故として片付けろと平次にそれとなく指示していたのだ。明智という男、若いが、なかなかの人物である。
 明智同心の指示もあり、事件の顛末書をしたため提出した平次だった。受け取るのが明智同心なのだから、話はすんなりと通り、権八の死は鳩が原因の事故として片付けられた。
 正吉はもちろん、おみよにも、なんのお咎めもないことは言うまでもない。万事が穏便に終わったのだ。

              (二十六)

 池之端の伊豆栄では、寛祭と平次、八に木曽屋の旦那、正吉におみよ、なぜかお静までもが集まり、にぎやかな宴が開かれていた。
「このたびは、一度ならず二度までも、木曽屋の危機を救っていただきました。寛祭さんに平次親分、いくらお礼を言っても言い足らないくらいです。今夜は、充分に飲んで食べて、ご苦労の疲れを癒してください」
 そんな、木曽屋四郎兵衛の挨拶から始まった宴会だった。
 寛祭からは、口止めをされていた正吉だったが、そこは正直なお店者、主人にだけは真実を話をしていた。おみよの方も、娘だから、さすがに汚されたことまでは話さなかったが、権八にいんねんを吹っかけられていたところに事故が起こったと、真実そのままではないにしても、話をしていたから、平次が、鳩を下手人の事故と、穏便な処理をし、それが、寛祭からのアドバイスと知って、綿帽子の件もあり、まるで寛祭のことを神様のように崇める気持ちになってしまっていた。
 一方、情人節に平次に煙草を贈ったお静も、今では、すっかりと平次の恋人気取り、傍に子分の八がいても、平気でしなだれかかっている。
 おみよはと言うと、これまでは、木曽屋では女中をしていても、自分は呉服問屋のお嬢様と思う気持ちもあり、奉公人の正吉など、鼻にもひっかけていなかったのだが、かばってもらったと思う気持ちから、あらためて正吉を見ると、正直で真面目、商人として有能でもあることに気づき、どうやら、両親に掛け合い、正吉を婿にと決めているらしい。こちらも、二人仲良く寄り添っている。まずは目出度しの結末である。
 この様子を、隣の部屋の二人連れが見守っていた。
 一人は着流しの浪人風の武士、そう、長官、遠山平蔵、もう一人は、武家娘風に華やかに着飾った長官秘書の山野林檎だった。
「御頭(おかしら)、α値は下がったとはいえ、まだまだ平常値の20にはなっていませんわね」
「ん、なにかと最近はこちらに逃げてくる不届き者が多い。大事件は起こしていないのが幸いとはいえ、いつなんどき、値が急上昇するかも知れぬ」
「そういえば、この時代の駐在員は今は欠員でしたわ」
「そうじゃ。先の駐在員は定年退職し、そのままだった。よし、寛祭をこのまま駐在員として残そう」
「でも、あの寛祭さんではちょっと心配がぁ」
「そこだ、なあ、林檎。いつまでもわしの秘書ではつまらんだろう、連絡員として寛祭のサポート兼目付けをしてくれんか」
「いいですわよ、御頭。でも、初めての女性連絡員ですもの、男の人と違って着る物もたくさん必要ですわ。特別支度金をた〜っぷりとお願いしますぅ」
 寛祭の知らないところで、着々と計画は進んでいる。

                           完



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hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木