気ままにそぞろ歩き
小江戸「川越」(埼玉県川越市)


掲載日:2003年9月29日
最終更新日:2004年7月24日

 うっとおしい週末が続いていました。久々に晴れた土曜日の9月27日、これまで行ってみたいと思ってはいても、一度も足を向けたことのなかった川越に行こうと思い立ちました。

 これまでも、河童をテーマの探訪は、妻と二人、車で出かけることが多かったので、今回も声をかけてみたのですが、なにしろ、言い出したのが11時近く、これからでは遅いということになり、日曜日が晴れたら出かけようと決めたのです。 いつもながらの衝動的行動です(^ム^;)

 翌朝、天気予報は晴れでしたが、山が近い自宅の周辺は曇っていました。しかし、晴れてくるだろう、かえって、暑くない方が良いと、予定通り、妻と息子を伴い、9時に自宅を出発したのです。

 自宅から川越までは、熊谷を通り東松山を抜ければすぐ近く。高速道路を使わなくても、3時間もあれば着くと推測していました。結果は、市内を通らず、バイパス道路を使ったこともあり、2時間を少し切る所要時間で到着することができたのです。

 国道から右に折れ、細い道に入りました。地方都市には良くある、片道1車線の生活道路です。10分も走らないうちに、江戸時代から続く、蔵造りの古い街並みに自然に入ってしまいました。

 さてそこで困ったのが、駐車場です。一般に、この地のような観光地だったら、メインの通りに入る前に、公共の大きな駐車場が整備されていることが多く、それを期待していたのですが、それらしき場所も見ないうちに着いてしまったのですからあわてました。

 道の左右には、民間の小さな駐車場はいくつかありました。15分100円の看板が建っています。少し高めだとは思いましたが、それでも停められないよりはましと、出費は覚悟しましたが、空いていないのです。どこも満車でした。

 駐車場を探しながら、ぐるっと市内を1周し、もし、これで見つからなければ諦めて帰ろうと、もう1周回っていて駐車場を見つけました。川越城本丸御殿の隣、市民野球場の駐車場でした。メインの通りからは少し距離はありますが、名刹「喜多院」へは800メートルです。 しかも、駐車料金は無料ということでしたから、これは幸運に恵まれたと言うべきですね。

 車を駐車し、まずはすぐ隣の本丸御殿を見学しました。

 続いて、「喜多院」をめざし歩きました。周囲はまったくの住宅街ですし、道標が整備されていなかったので、スムースに行けたとは言い難いですが、それでも、方向はだいたい解っていましたし、大きな森を目印に、10分ほどで行くことができました。

 喜多院の歴史はあまりにも古く、はっきりとはしていないようです。一説によると、平安時代に淳和天皇の勅命により、慈覚大師円仁によって創建されたとされています。

 後年、いったんは炎上し、永仁4年(1296)に再興され関東天台宗の中心として栄えたそうです。

 江戸時代に入り、寛永15年(1638)の川越大火で焼け落ち、徳川家光の命により、堀田加賀守正盛により復興されました。この時に、江戸城紅葉山にあった別殿を移築したことから、 家光誕生の間、春日局化粧の間が残っています。

 「喜多院」の参道の入り口右側には、「成田山」という神社がありました。さほど大きな神社ではありませんでしたが、ちょうど、境内いっぱいに骨董品の市が開催されていて、足の踏み場もはいほどの混雑でした。

 目的の「喜多院」は、さすがに大きなお寺でした。建物そのものが重要文化財に指定されているとか。川越の民話にでてくる喜多院のイメージとはまったく違うその荘厳な雰囲気に、むしろがっかりさえしてしまいました。狸がでるような、ひなびた古寺を想像していましたから。

 喜多院からは、歩いて10分ほどで、江戸時代の面影を残す街並みにでることができます。白壁よりも、黒壁を基調とした蔵造りの商店が並んでいました。

 街並みに到着したのが、午後の1時ころです。この頃になると、観光客も続々と集まってきて、細い街道は人であふれかえるばかりになってしまいました。道路はひっきりなしに車が通ります。ちょっと危険を感じるほどの混雑でした。

 昼食は、川越のシンボルの一つ「時の鐘」の向かい側にあった和食屋でとりました。観光地なので、あまり多くは期待していませんでしたが、味も値段もリーズナブル、がっかりするようなことはありませんでした。

 駐車所に車を停めるとき、係りの人から紙を渡されていました。観光した証拠として、時の鐘からもほど近い「蔵造り資料館」でスタンプを押す義務があったのです。ついでに、入館料100円を払い、記念館も見学しました。まあ、はっきり言って、博物館といえるような展示はなく、各地で 蔵を見学し、会津喜多方では、蔵屋敷の旅館に泊まった経験からは、珍しいようなものはなにもなく、参考になるような展示物も解説もありませんでした。まあ、100円だから良いようなものの、高かったら怒る、そんな程度の施設でした。

 続いて、妻のたっての希望から、「駄菓子屋」が建ち並ぶ横丁(とは言っても、普通の住宅街の路地に、取って付けたような小店を並べただけの、いかにも観光地という感じですが)を見学してから、帰路につきました。

 始めて行った川越です。実は、あまり良い印象は受けませんでした。もちろん、特別悪い印象を受けたということではないのですが、なにしろ、人が多すぎた。いつものような探訪ならば、写真を多数撮影する私も、撮っても観光客ばかりが写ってしまい、私の大嫌いな写真になると、 今回はほとんど撮影をしませんでした。

 街並みの建物も、観光客のための施設も、急増する観光客の好みに合わせてか、厚化粧させたり、急ごしらえしたり。そんな印象を受けたのです。 全体として落ち着きが無いのです。そこにあるのは、江戸の風情を残す古い街道筋の落ち着いた街並みです。観光客向のお店も、さすがに「小江戸」と思わせてくれるほど、上品な趣味でまとめられているお店が多く、そこは、田舎の派手だけの観光地とは大違いです。 しかし、あまりの数の観光客に対応するためか、その他にも理由があるのかは解りませんが、街並みに身を置いていて、心地よくないのです。

 私が受けた感覚は、ちょうど、かつての「清里」のよう。まあ、若者向のそれではないにしても、どこか、流行に流されている軽薄さを感じてしまったのです。

 素材としてはすばらしい物を持っている。地域住民の文化のレベルも高い。それなのに、それが上手に表現できていなくて残念だ。これが、今回の「川越探訪」の総括です。

写真撮影日:2003年9月28日
        川越の伝承民話

 地元の書店で見つけた川越の民話を集めた本を持っています。
 小学校の教師と勤め上げて定年を向かえた方が、民話を収集して出版した本です。多数の話を集録していますが、各地に見られる一般伝承を川越と結びつけたもや、落語のネタがそのまま だったりと、資料としては今ひとつでした。そこで、ユニークと思われるものだけ紹介します。ただ、私もまだまだ研究不足ですから、取り上げた伝承も、一般伝承かも知れません。

  ・修行に励んだ小僧タヌキ
 喜多院に子供が現れ、弟子にして欲しいと言い出した。熱心に修行をするので、住職の実海僧正はいたく感心していたのだそうです。
 しかし、ある時に、修行に疲れ寝入っていた小僧の姿を見ると、それはタヌキだったのだそうです。タヌキであったことがばれてしまい、タヌキは、姿を消したそうです。
 (注)日本全国に良くあるロジックですが、徳が高いと、地元では誇りに思うほどの僧正だったから、この話が伝承されているのでしょう。でも、本当に徳が高かったのなら、熱心に仏教修行に励むものの実態が、 たとえタヌキだと解ったとしても、なぜ、それを擁護せず、だまって追い出したのでしょうか。私には心の狭い人間としか思えませんし、その人の行状を伝承として伝え残す地元の民衆の心が理解し難いのです。

 この伝承を元に、創作民話を創りました。

・白ギツネとの約束
 喜多院には、白いキツネが住んでいたそうです。いたずらをして人を騙していたのですが、住職の尊海僧正にキツネであることを見破られ、悔いて出てゆくことになったそうです。
 出てゆくに当たりキツネは、お詫びにと、お釈迦様が布教している姿を僧正に見せると言い出しました。
 キツネは約束通り、その力の限りをつくし、僧正に釈迦の姿を見せたのですが、声を出してはいけないとの約束を僧正が破り、念仏をとなえたことから、キツネは命を落としてしまいました。
 約束を破った己の不徳をわび、僧正は死んだキツネを手厚く葬ったのだそうです。

 最後に、少し感じたことがありました。場所は川越、江戸の文化ということもあるのかも知れませんが、老人の団体客が目立ったことです。

 秋の行楽シーズンの日曜日です。観光客が多いのは、ある程度しかたがありません。でも、できたら平準化したい。日曜日しか観光ができない会社員や家族連れとは違い、 平日でも自由に行動できるはずの、リタイヤした年配者のツアーは、混雑する日曜日は遠慮して欲しいものです。

 身勝手な言い方かも知れませんが、そう思いました。


hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木