気ままにそぞろ歩き
子育て呑龍「大光院」(群馬県太田市)
太田七福神:弁財天


初回掲載日:2003年10月11日
最終更新日:2009年 5月 3日

 父親の生まれた土地であり、私自身も6年ほどの海外暮らしの期間があるものの、すでに30年以上も住んでいる群馬県太田市には、江戸時代から続く、大きなお寺「大光院」があります。

 大光院は、慶長18年(1613)に、八幡太郎源義家の孫新田義重を追善するため、徳川家康によって創建された浄土宗の寺です。 江戸時代は、幕府から扶持を与えられていた寺でもあり、関東十八壇林に属する格式の高い寺でした。


 私の家は、その参道に続く道のすぐ近くにあります。

 以前は、朱塗りの大きな木製の門がありましたが、今では、コンクリート製のモダンな門(大門)に替わりました。この門は、私の書斎の窓から見えています。

 かつて日本は、徳川幕府による幕藩体制でした。江戸には幕府が、地方は藩という行政区分により統治されていたのです。

 古くから開発されていた地方都市は、そのほとんどが、そんな藩体制での城下町です。それぞれの地域なりの固有の文化を持っています。

 しかし、この上州新田(現在の太田)の地は、かつては、源氏の名流新田家を始めとする武将が治める地域であったものの、 江戸時代以降は、幕府の天領であり、多数の旗本領や寺社領がモザイクのように入り組む地域でした。

 特定の領主を持たないことからくる、一種の文化の欠落と、それだからこそ醸し出された特有な文化を持つ地域でもあります。
 寺の門からは南北に参道が通っています。

 以前は、道の左右にみやげ物屋がぎっしりと立ち並んでいましたが、今では、住宅が増え、みやげ物屋の数はまばらになって しまいました。

 しかし、にぎやかだった頃の面影は、今でも少し残っています。

 土産物屋に並ぶ商品は、このお寺が「子育て呑竜」と呼ばれ、子供を欲しい夫婦がお参りしたり、子供が授かった夫婦がお礼参りにきたりと、子供連れが多いことから、 太鼓やカタカタなど、古いスタイルの玩具から、新しい玩具までと、おもちゃが多くのが特徴です。

 また、店の奥では、うどんや蕎麦、おでんなどを食べさせる簡易食堂になっているところがあり、一休みしてビールも飲めます。
 お寺の入り口の門には、三つ葉葵の紋所が付けられ、このお寺が、徳川将軍家ゆかりの寺であることを示しています。

 この門は、大阪城落城の日に上棟したことから、吉祥門と呼ばれ、間口3間奥行き1間、木造切妻造り、三間一戸八脚門形式です。

 大光院 太田市金山町37−8 0276-22-2007
 入ってすぐ右手には、鐘付き堂があります。毎年の大晦日、この鐘が突かれる頃には、境内には隙間が無いくらいに人であふれかえります。


境内左手には、壮大な本堂があります。



境内右手奥は、ご住職の住居でしょう。大きな臥せった龍の形をした松(臥龍松)が見事です。
 初代住職の呑龍上人は、寺領をさいて貧民の子供を弟子の名目で養育し、民衆に慕われていました。今でもこの大光院は、「子育て呑龍」と呼ばれ 親しまれています。

 子育ての御本尊(開基である呑龍上人が自ら彫られた仏像です)が祭ってある本堂には、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた若い夫婦がお参りに来ていました。

 また、本堂の中では、やはり赤ちゃんを連れた数組の家族が、御祈祷を受けていました。 秋の季節、七五三の頃には、着飾った親子で広い境内も混雑するほどです。

このお寺にはなぜか古い灯篭が多く、各所においてあります。

灯篭左

文政十年の年号の入った灯篭左
灯篭右

1対の灯篭右側
鉄製灯篭

珍しい鉄製の灯篭


 大光院も、太田市が選んだ七福神めぐりの一つのお寺です。大光院は「弁財天」です。そして、七つのお寺にはこの統一プレートが掲示されています。



 幼い頃の思い出には、このお寺の境内に美しい池があり、多数の亀がいました。ところがいまでは、手入れがされていない、汚れた水溜りになってしまっていました。
 その池のほとりには、弁財天の小さな社が建っています。

 大光院の初代住職、呑龍上人の墓所です。




 徳川家康が征夷大将軍を襲名するに当たり、自らの祖とした徳川義季の父親であり、新田家の初代、新田義重(清和源氏の名将である八幡太郎源義家の孫)のお墓です。義重の兄弟が足利氏の祖義康です。

 境内では、季節によって各種のイベントが開催されています。今日は、山野草展が開催中です

 境内には、地域の野草愛好家が作品を持ち寄った展示会と、苗の即売会が行われています
参道の近くに、上州の名物「焼きまんじゅう」を製造販売している、周辺では有名なお店(山田屋)があります。

 焼いたものを店でも食べられますが、蒸したままの、まだ焼いていない饅頭と、味噌たれとをセットしたお土産も売っています。素朴な味なので、私も来客があった 時など、お土産用に使っています。
 参道の入り口に置かれたポストです。今ではすっかり見かけなくなっている「赤い郵便ポスト」ですが、太田市内にはいたるところでまだまだ現役で働いています。
 こちらも、大光院とは直接関係はありませんが、今でも、職人さん太鼓を造っている店が近くにあります。伝統技法に基づいた大太鼓を作れるお店は、今では全国にもあまり残っていないとのことです。

 夏祭りの季節など、新規に発注した大太鼓のため仕打ちをしているのでしょう、全国各地の叩き方での太鼓の音が、私の書斎にも聞こえてくることがあります。なんてったて、100メートルほどしか離れていませんからね。

 このお店では、革ののなめしから胴の細工、革張りなど、すべての工程をこなすことができるとのことです。ご主人のお話では、職人さんを多数抱えていた以前とは違い、人手の問題もあり、今では、なめした革を仕入れて使っているようです。


 平成21年1月1日の大光院への参詣の様子です。


 今年は、去年よりも人出が多いように感じました。


 2009年5月開催中の山野草展の会場です。



 山野草愛好会ごとに棟をこしらえ、作品が展示されています。ごとに年々、出品者、作品数ともに増えているようです。

 関東平野の最北部に位置する太田市です。群馬県というと、山の中だろうなんて思われる方が多いと思いますが、このあたりは山地では無く平地です。厳密に言うと、関東平野の北の縁のようなところです。 ここから、低い丘や小山が始まり、赤城や尾瀬の山々と繋がってゆきます。

 冬から春にかけての季節には、赤城山から吹き降ろす冷たい「からっ風」が吹きます。夏の名物は「雷」です。これといった特徴のある農作物があるわけではない、人口もさほどはいない田舎の街ですが、 江戸時代は、大名が統治する地域ではなく、幕府直轄の旗本領地が多数入り組み、農民出身の代官が治めていた場所です。そんなことから、人の流動性も高かったからでしょう、 ひとなつっこい、排他主義のほとんど無い、フレンドリーな気質の土地柄でもあります。そして、空気も澄み切ってきれいです。

 まあ、玉に瑕は、東京へは電車で1時間ちょっとと近いことから、田舎ではあるものの、その物価は、東京と同じというのが困ったもの。そんな場所に、私は住んでいます。

 この大光院の伝承については、『マイタウンOTA・太田』のサイトの中に、創作民話と伴に、詳しく紹介しています。
 『太田の伝承と創作民話
写真撮影日:2003年10月11日
2008年2月22日
2008年4月30日
2009年1月1日
2009年5月2日


hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木