気ままにそぞろ歩き
世良田東照宮(群馬県太田市)


掲載日:2005年12月25日

 東照宮というと有名なのは栃木県日光市にある東照宮です。でも、東照宮は一つではありません。その中の一つが『世良田東照宮』です。

 元和二年(1916年)四月二十七日に亡くなった徳川家康は、方位による縁起をかついだのでしょう、いったんは、静岡の久能山(久能山東照宮)に祀られました。しかし、終生の魂の有り所として日光の地が定められていたことから、 息子である二代将軍秀忠は、翌年日光に『東照宮』を造ったのです。その後も、元和四年には江戸に二つ、『紅葉山東照宮』と『浅草寺東照宮』が、松平家のお抱え大工であった棟梁の中井正清によって建てられてます。

 東照宮とは、徳川家康の生母である「お大の方」が子授けの祈願をした『鳳来山東照宮』に由来します。祈願により家康が生まれたと考えたのでしょう、家康生誕の地岡崎にも『岡崎東照宮』が建てられています。

 『東照宮』は、徳川家康の守護神であったのでしょう。そして、死後、家康自身がその『東照宮』の神となったのです。

 元和三年に建築された『日光東照宮』は、20年後の寛永十三年(1636年)に大々的な改修が行われ、現在見るような華麗な『東照宮』となりましたが、寛永十九年(1642年)に、元和二年に建てられたオリジナルな 『日光東照宮』の本殿と拝殿が、徳川家発祥の地である現在の群馬県太田市世良田に移築され、今でもその姿を見ることができるのです。

 冬の日、久々に晴れた暖かい日、まもなく来るお正月の準備に忙しい『世良田東照宮』に行ってみました。









 東照宮の正門です。初詣の準備が着々と進められています。

 入るとすぐ、移築された当時の東照宮の絵図が河かがられています。
 門をくぐると、狭い庭の先に鳥居があり、移築された拝殿と本殿と続いています。
 鳥居の右側です。社務所があります。本殿を参拝するには、ここで入場料(大人300円)を支払います。
 鳥居の左側です。たて看板の前にブルーのシートが被さっているのは木材です。1月5日には、ここで『御釿(ちょうな:鉋)初め式』が行われることから、その準備が整っています。
 拝殿です、初詣で賑わうお宮です。ブルーのシートはお賽銭受けでしょう。

 拝殿の右にあるこの灯篭は、珍しい鋳物の大灯篭です。大光院にも鉄製の灯篭がありますから、きっと、元和年間に、この近くに優れた鋳物師がいたのでしょう。明暦四年(1658年)の銘があり、国の重要文化財に指定されています。
 拝殿の庇装飾です。現在の日光東照宮にも似た、華美な装飾を施された造りになっています。とても上品とは言えない色使いとデザインですが、だれの趣味だったのでしょうね(^ム^;)





 拝殿の奥、本殿の門です。

 ここが、東照宮の本殿です。
 本殿の左側には、随身する武家の絵が描かれていますが、残念ながら絵の具が剥げてしまってどんな絵だったのかはわかりません。
 右側にも武者絵が描かれていた跡が残っています。

 本殿の庇の内側です。鮮やかな色彩が今でも残っています。三つ葉葵の紋は、時代によるいくつかの種類がありますが、この紋は、葉の茎が輪に接触した形になっています。
 本殿の内部です。お正月の参拝客のためでしょうか、畳も装飾品も新しいものが飾られています。

 本殿の門の内側です。
 門の扉は、鉄板と鉄の鋲で厳しく補強されています。いかにも、武家の家の門の雰囲気が現れています。
 東照宮の門を潜ってすぐ左側に、『番所』が再現されています。徳川家の庇護されていたこの神社には、上下二つの番所がしつらえてあり、警護されていました。
 番所の内部です。江戸の町中にあった番所と同じように、捕り物三つ道具(突棒・刺股・袖絡み)の他にも、火消し道具の「鳶口」が3本、棒が10本常備されていたのです。


 徳川家康は、征夷大将軍の任官を受け、幕府を開きましたが、制夷大将軍の任官を受けるには、天皇家から発した武家(源氏)の家柄が必要でした。

 現在の群馬県太田市周辺は、源義国の息子二人(足利義康と新田義重)が住み着き、足利家・新田家を、新田義重の息子が徳川家をと、3家の源氏の家が起こった地です。

 足利幕府が有名無実となり、実権を握った豊臣秀吉は源氏の流れではなかったことから征夷大将軍にはなれませんでした。後を襲った松平家康は、なんとしても 征夷大将軍になりたかったのでしょう。太田の地に、当時勢力を失った源家嫡流の名門徳川家があったことに目を付けたと思われます。

 松平家の祖を松平親氏とし、かつて、徳川家の嫡流が松平に改姓したこととして自らを源氏の嫡流と称し、改めて徳川に改姓したのか、 たまたま、徳川家の嫡流の中に、自分と同じ松平姓を名乗った人(松平親氏か?)がいたことに着目し、その子孫であるとして、強引に源氏の 嫡流であると主張したのか、どちらかは解りませんが、いずれにしても系図を捏造し、朝廷から征夷大将軍の称号を出させた、それが徳川家康です。 源氏の嫡流の徳川家と、旧姓松平家康との間に血縁は無かったと思われます。本来ならば、家康には将軍になる資格は無かったのです。

 しかし、朝廷とは別の政権を樹立するためには、どうしても征夷大将軍の称号が必要だった。そしてその考え方は間違ってはいなかった。300年にわたる平和国家日本は、家康の 卓越した能力によるところが大きかったと思われるからです。国民のためには、それで良かったのです。

 徳川家康という人物は、天才的な武将であり、類まれなる政治家であり、詐欺師だった(^ム^;)
写真撮影日:2005年12月24日


hpmanager@albsasa.com Albert 佐々木