気ままにそぞろ歩き
円覚寺
(神奈川県鎌倉市)


初回掲載日:2008年11月3日
最終更新日:2011年 3月3日



 鎌倉五山の一つ、『円覚寺』に行ってきました。

 鎌倉五山とは、格式の高い寺を五つ選び制定した制度です。
 五山制度は、インドの五精舎にならい中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来するそうです。
 鎌倉の禅宗は、南宋から帰国した僧侶栄西らによって伝えられ、鎌倉時代末期に、鎌倉幕府は次々と大寺院を建立しました。
 鎌倉五山とは、鎌倉時代に五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のことです。

 この円覚寺は、鎌倉五山の第二位のお寺です。
 円覚寺は、執権北条時宗が1282(弘安5)年、宋僧無学祖元を招いて開いた寺院です。
 建物は創建当初から谷間のわずかな平地を利用し禅宗風の伽藍配置をもった堂塔が多くならんでいました。しかし、 たび重なる火災で、創建当初の建物はすべて失われています。しかし、室町初期の建築とみられる舎利殿は、禅宗様式を代表する建物とのことです。

 このそぞろ歩き、実は、午後から開催される荏柄天神社の筆供養祭りに参加するため、早めに家を出て、2時間ほどをかけ、同じく鎌倉五山一位の建長寺と共に 撮影をしようと考えていました。
 JR北鎌倉駅で降り、まずは円覚寺、次に歩いて建長寺、そこからまた歩き、鶴岡八幡社を通り、荏柄天神社へと、ハイキング気分でした。
 ところが、この円覚寺の大きさです。とても次に行くどころではありませんでした。撮影が終わり、なんとか建長寺までは歩いたのですが、中に入るどころか、12時までに 荏柄天神社に入れそうも無い。しかたなく、タクシーを呼んで荏柄天神社まで行くはめになってしまいました。
 ともかく壮大な規模の寺院です。予備知識もなく訪問したのは失敗でした。よって、ろくなコメントができません。次は、充分に事前調査をしてから訪問しようと考えています。















































 1月にはまた、荏柄天神社への初詣を予定しています。その日も、今回と同じように10時には鎌倉に着き、建長寺を訪ねるつもりです。
 今回に懲りて、他へは行く予定をせず。歩いて荏柄天神社へなども考えず、鎌倉駅からタクシーで一直線に建長寺に行き、同じくタクシーで荏柄天神社に 行く計画にするつもりです。

 円覚寺の壮大さは、さすがは鎌倉幕府のお寺と思わせてくれました。おそらく、江戸幕府のお寺も、負けずに壮大だったのでしょう。ただ、東京と鎌倉の違い なのでしょうね。東京は、都市化と共に、どんどんと小さくなってしまったのでしょう。鎌倉だから、当時のままの規模で残っているということなのでしょうね。

 2011年の3月に、群馬県太田市徳川にある、縁切寺満徳寺資料館の友の会主催で、姉妹資料館である鎌倉東慶寺(江戸時代には、縁切寺が二つありました)へ見学に行く行事がありました。 たまたま、東慶寺のご住職に時間がお有りとのこと、ご案内をいただき、『円覚寺舎利殿』の見学と解説をしていただきました。

 この舎利殿は、国宝に指定されています。また、所属する僧侶の禅の修行道場であることから、一般の観光客は入れません。今回、特別許可により入らせていただきました。

 なお、日本でも、最も古い舎利殿であり、納められている仏舎利(ブッダの遺骨)は、『奥歯』なのだそうです。

 ちなみに、私はかつて、中国福建省の『涌泉寺』(弘法大師空海がしばらく逗留した修行したことで有名なお寺)で、ブッダの『歯』の仏舎利の実物を見たことがあります。

 もちろんん、この円覚寺の仏舎利は、非公開ですので、見ることはできません。

舎利殿の入り口の門です


門内に入ると、正面に舎利殿が、右側には修行のための施設が建てられています

国宝の舎利殿です


本来は、撮影するのは失礼なのですが、これが、舎利殿の中の拝殿です

座禅修行をするための禅堂です。入門するには、門外で二日、門内で三日間、地面に正座して入門を請うしきたりがあるそうです。それを終えて初めて、入門が許されるとのことです。なお、一般の人は入門できません。あくまでも、将来、住職となる予定の正式な僧侶だけです。

堂の中には、左右に畳半畳の奥行きの座所があります。一人に半畳のスペースが与えられるそうです。正式に入門が許されると、私物を置くことができるそうです。黒い、布団のような物が置いてあります。



写真撮影日:2008年10月12日・2011年3月1日


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